もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

えらい

今日はえらい。

朝ちゃんと起きれた。

ゴミは出せなかった。
あんまり溜まってないから、いいかな。とか思ったけど、普通に溜まってた。えらくない。

朝ごはん食べて出かけられた。
えらい。
カップ麺だったけど。

遅刻しなかった。えらい。
当たり前だけど、意外とできてないから、えらい。

水筒を持ってくるの忘れた。
しょうがないね、コンビニでお茶を買った。こういう出費は削っていかないとね。えらくない。

誰にも頼まれてないけど、気付いた雑務を一人で片付けた。
わりと一時間ぐらい頑張った。
えらい。ちょーえらい。
誰も褒めてくれないけど、えらい。


お昼はちょっぴり節約した。
えらい。
最近、某うどん屋が値段に対して幸せ効果が高いと気付いた。コスパ良い。嬉しい。


お昼休憩は1時間だけど、ご飯は30分で終わらせて、勉強の時間を取った。
えらい。


終業間際に先輩にいろいろ質問して、いろいろ話し込んで、それをメモって、気がついたら2時間もの残業。
えらい。
この勉強の2時間は絶対どこかで活きてくる。
先輩も付き合ってくれて優しい。先輩もえらい。


帰宅して、疲れていたけど、コーディングをした。
そろそろ自分のサイトをちゃんと作りたいんだよね。
毎日、仕事以外でコーディングをちょっぴりでもする。土曜日から頑張ることにした目標。
3日坊主目。えらい。
目指せ4日坊主だ。


アコギの練習もした。
まだまだだけど、鳴らなかったFコードが高確率で鳴るようになってきた。
えらい。


寝落ちたいけど、ちゃんとお風呂に入った。
社会人になってから、朝遅いから、朝シャワー率が高い。でもそのせいで朝飯食べる時間なかったりする。
えらい。


残り湯で洗濯機を回した。
えらい。

たまっていた皿洗いを片付けて、明日用に麦茶を用意した。
えらい。


ねむくなった。
えらい。
ちゃんと寝るべき時間に眠くなっている。

ブログを書いた。
すごくえらい。
うまく理由を説明できないけど、なんかえらい。


当たり前でも、えらい。
今日も明日もえらい。


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今日の曲

冬の曲だけど、しっとりした夜には、なんか染みる。

「悲しいことなんて思い出さないように、蓋をする」

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書きたいし、描きたい、掻きたい

ブログ。
全然触れていない。

久々にこうして筆を取ったら、すぐその触れていない間の時間に思いを馳せる。
そして、その時間について、溜め込んだ想いについて、こうして紡ぐ。
ブログに書く話題がブログ自身のことばかりというのは、少し不思議というか、違和感というか。なんだか絵を描いてる人を絵に描く、みたいな、マトリョシカ的な構造を感じる。

まぁ、でも、やはり浮かび上がってくるのは、その想いだから、書くしかないのだ。

近況

最近、忙しくしている。

仕事は決してのんびりしたものじゃないし、ワタワタしてる。
メリハリをつけられるほど器用じゃないので、常に60パーセントの出力ぐらいで、あっちこちぶつかるルンバみたいな軌道で、頑張っている。

仕事終わりには毎日勉強の時間を取っている。その日詰まった技術ネタをまとめて、Twitterに投稿するのだ。30分ぐらいだけのつもりだけど、1時間以上やってたりもする。

当たり前の家事も大変だ。
毎日ご飯の心配がある。今日の夕飯はどうしよう。自炊したもんか、外食したもんか。今日の出費多すぎやしないか。
自炊したら皿洗い。
食後で一息ついたら、あぁもう面倒臭い、また明日。

趣味は、新たにアコギを買った。
弾き語りへの憧れだけで買ったけど、やっぱり一朝一夕にはならず。
毎日頑張んないとね。


ここまでやったらもう限界。仕事して勉強して家事して、楽器練習。
とても文章に費やす体力と脳みそは残らない。
ギリギリ残せるかもしれないけど、そこまでのモチベーションもない。


そして、こうして前の更新より、数ヶ月が経ち、「やぁブログ、久しぶり」となる。
ここ数年、数ヶ月おきに、それを繰り返している。

ブロガーなんて肩書きに、なんの誇りもないけれど、しばらく書いてないと、物書きしての存在感を失う。
はてなブログでは、購読というシステムがあって、何人かのブロガーさんとTwitterのフォロワーみたいに繋がれるのだけど、その人達のタイムラインから自分がうっすらと消えていく。
昔書き溜めた自分の文章達が、埃をかぶっていく。

それがどうしてか、少し寂しくて、別れかけの恋人を引き止めるかのごとく、「待って、まだ君が必要なんだ」って縋り付く。


他のブロガーさん達は、ぽつぽつと、文章を書き続けている。
他愛もない日記が、色鮮やかに見える。羨ましく思える。

ふとそれらに触れて、そうだ、僕も、ここの住人であったんだ、と思い出す。
文字に浸り、文字に溺れ、文字に生きた人間だったのだと。
くだらなくても、ドロドロでも、確かにそこにはそこにしかない、どこか美しい欠片があった。



想いのこもった文章は、綺麗だ。
それがどんな黒く澱んだものでも、それは結晶だ。


書きたい。
心を描きたい。
体を掻きむしりたい。


もっともっと。


身体を燃やして、心を燃やして、脳を溶かして。
何かを書いていたい。


今回の気持ちは、どれくらい続くかな。

久々に大きな風邪をひいた

社会人になって、1ヶ月。

疲れが出たのかもしれない。

事実上の一人暮らし。
一定の生活リズム。
残業上等な職種。
疲れ切って深夜に1人かきこむ夕飯。


こう文字にしてみると絶望感があるが、わりと大きな困難もなく、何より望んだ通りの仕事だったからか、そこそこ晴れやかな気持ちで1ヶ月を終えた。

しかし身体の方は、悲鳴をあげていたようだ。


溶連菌感染症
こんな漢字6文字、全く縁がなかった。
もっとも、途中までは原因不明の高熱だったのだけど。

ともかく、39度の熱が4日、5日ほど続いて、世間が令和だ、GWだと騒がしい中、高熱で「うーうー」うなされて終わるデスウィークだったのだ。
病院まともに空いてないし。正直親の看病なかったら死んでた。


熱が落ち着いて動ける今も、未だに咳でるし。

人生ままならないものである。
このレベルの体調不良が平日に来なくて良かったけど、ほんと。

まぁ結局長い休みといっても、どこかしらダラダラと無為に過ごしちゃうのだから、風邪引いてダウンした時間分がまるまる損とも言いきれないし、ね。


とりあえず酷い目にあった長期休暇でありました。

身体いたわらないとね。

「自己肯定感低い」は褒められた話じゃないよ、って話

はてブコメントが予想以上にバズって嬉しいので、ちょっと語ってみる。
元記事の論点からはだいぶズレてる気もしてる。あと煽り気味な口調になってる。
そこはごめんなさい。

ブコメ

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みんなスターありがとう、うれちい

本論

まず最初に結論として、自己肯定感低い、ってのはいいことじゃない。
経験則でそう思う。

歴史としてどうかはわからない。自己肯定感の如何にかかわらずヤバい人はいるだろうし、実際そこに明確なロジックとかメカニズムとか、そういうのはあるかもしれないし、ないかもしれない。


自己肯定感低い、ってのはいいことじゃない。
自分に対して肯定的になれないのが心持ち的に良くないよとか、そういう話をしてるんじゃあないぜ。
他に対して良くない影響が出る。
はっきり言って人の迷惑になる。

なぜって、自己肯定感が云々って感じの時点で、自己中だから。センターオブジアースだから。

世界の中心で俺の悲劇を聞いてくれ。

そんな感じだった。
メンヘラ黒騎士の俺はそんな感じだった。
そりゃマウントゴリラになりますわ。

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\ドンキーコング!!/
*1


いや、痛いわ。
というかやめて。
自分の押し売りやめて。
聞いてない聞いてない。求めてない求めてない。


あなたが有能であろうが無能であろうが、病み気だろうが、ダークネスだろうが、そんなのは他人にとっては大した問題じゃない。

あなたが、自分のアプローチに対して、どう返してくる人間なのか。
それだけ。
それが情報量のすべて。判断材料のすべて。


自称自己肯定感低いマン、最大のがんは、自分だけにスポットライトが当たってること。
周りのキラキラした人たちと私は違うの…なにもできない可愛そうな私…どうやって生きていけばいいの…?


あ、もしかして、自分が主人公だとでも思ってた?

いや、そうなんだけどね。
あなたの人生はあなたが主人公よ。
でも、あなたの人生のモブにも一人ひとり人生があって、それぞれが壮大なRPGの主人公してんのよ。
世はまさしく戦国騒乱の群雄割拠よ。


まぁつまり、周りを忘れるなってことよね。
視野広い、ダイジ。
アナタとワタシ、トモダチ。


正直、自己肯定感ってものがよくわかってない。
高ければむしろ人を尊重できるのか、低く謙虚に生きるのが駄目なのか。

自信とはなんなのか。
価値観うずまく社会で、自分をどう信じればいいのか。


ごめん、知らない。
なんだったら俺が教えてほしいわ。



ただ経験則として、「自己肯定感低いマン〜」って自称してるうちは自己中だから、気をつけようねって話。

いや、誰しも多少は自己中なんだけどさ。
自己中を自覚してない自己中ほど、害悪ってないじゃん?


謙遜は大事、悪じゃない。
ただ、自己肯定感なんて関係なく、謙遜はできる。

大事なのは目的。
なんのために引き下がるのか、道を譲るのか。


自分を振り返る前に、周りを見渡す。
分かれ目は、決断するときに「まず自分」とならないか、じゃないかなぁ。





(雑)
(完)
(所要時間1時間)
(マウントゴリラって単語すこだから使っていきたい)

さよならツイ廃

2019年に入って2つめの記事です。

みなさま、お久しぶり大根。


今宵は、Twitterの話題です。

実は先日、5年?ほど長く使っていたTwitterアカウントを削除しました。


以前の、1~2年前の自分が聞いたら発狂するような事態です。

そう、かつての僕は長い間、ツイ廃(Twitter廃人)でした。



どこからがツイ廃なのか、それは人によって意見が分かれると思います。
ただ僕は、そう呼ばれても仕方ない自覚があるぐらいには、のめり込み、その空間に時間を費やしました。
いろんな出会いも、別れも、仲違いも、気まずさも経験しました。

そうする時間も、必要もなくなった今は、「どうしてだろう」とさえ思います。

たぶん、当時の僕は、そこにしか居場所を感じれなかったのだろう、と想像します。
寂しくて、話せなくて、打ち明けられなくて、抑え込まれた感情がそこに注ぎ込まれたのだろう、と。


かつての神童もただの人、かつてのツイ廃はただのリア充になってしまいました。

ありがたいことです。

きっと、今の相方さんとの出会いがなければ、こんな晴れやかな気持ちで過去を見ることなど出来なかったでしょう。



ツイ廃だった頃の僕は、時間と心を持て余していました。そしてそれを全てTwitterに注いでいました。
だから不思議だった。
現実の友達が、どうして自分のようにならず、Twitterという虚構からほどよく距離を置けているのか。

今ならわかる。
現実に持て余すものがなかったから。ちゃんと現実で時間を過ごしていたから。

僕もそうなった。
時折見るだけで十分。
逆に何を喋ったらいいかもわからない。特に話題もないし、ちょっと最近あったすごかった報告をするだけ。



別段、なにか別れを言うでもなく、気がついたら、ツイ廃から遠ざかっていました。


だから今回アカウントを消したのは、ツイ廃を精算するだけでない、別の理由があります。


実は去年の夏付近から、とある理由で、ずっと使っていたその垢(=アカウント)で呟くことが窮屈になっていました。

その理由とは、顔を知っている大人とつながってしまったこと。

詳しいことは割愛しますが、やはり大人に見られている緊張感はやばいです。ちょーしんどい。

そして高レベルな大人たちのツイートはプレッシャーでもありました。


結局去年の夏付近、別垢を作りお引越ししました。今やその垢がメインです。


呟くのが気まずくなってしまった旧垢ですが、何年も使った分、思い入れも多少ある。
消すのは惜しいとそのまま放置すること、約半年。



年も明け、とうとう残しておく意味もあまり感じないようになってきました。
思い入れがあっても今や空っぽの垢、時折タイムラインを眺めてみるものの、やはりプレッシャー源となるツイートは多く複雑な心境です。


消そう。

失うものはある。でも痛くはない。
残しておくことで、得る幸福もない。


ふと思い立ち、サラッと、ためらいもなく、削除してしまいました。


あ、なんだろう。このスッキリした気持ち。
大怪我したかさぶたがキレイに剥がれたような、部屋の隅に放置していた粗大ゴミをとうとう捨てたような、そんな気持ち。



さよなら、ツイ廃の記録。

さよなら、黒歴史


今日から新しい自分ってわけでもない。
今日から劇的に何かが変わるわけでもない。

でも、まず一歩。
別れをここに刻むことも、一歩。