もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

さよならツイ廃

2019年に入って2つめの記事です。

みなさま、お久しぶり大根。


今宵は、Twitterの話題です。

実は先日、5年?ほど長く使っていたTwitterアカウントを削除しました。


以前の、1~2年前の自分が聞いたら発狂するような事態です。

そう、かつての僕は長い間、ツイ廃(Twitter廃人)でした。



どこからがツイ廃なのか、それは人によって意見が分かれると思います。
ただ僕は、そう呼ばれても仕方ない自覚があるぐらいには、のめり込み、その空間に時間を費やしました。
いろんな出会いも、別れも、仲違いも、気まずさも経験しました。

そうする時間も、必要もなくなった今は、「どうしてだろう」とさえ思います。

たぶん、当時の僕は、そこにしか居場所を感じれなかったのだろう、と想像します。
寂しくて、話せなくて、打ち明けられなくて、抑え込まれた感情がそこに注ぎ込まれたのだろう、と。


かつての神童もただの人、かつてのツイ廃はただのリア充になってしまいました。

ありがたいことです。

きっと、今の相方さんとの出会いがなければ、こんな晴れやかな気持ちで過去を見ることなど出来なかったでしょう。



ツイ廃だった頃の僕は、時間と心を持て余していました。そしてそれを全てTwitterに注いでいました。
だから不思議だった。
現実の友達が、どうして自分のようにならず、Twitterという虚構からほどよく距離を置けているのか。

今ならわかる。
現実に持て余すものがなかったから。ちゃんと現実で時間を過ごしていたから。

僕もそうなった。
時折見るだけで十分。
逆に何を喋ったらいいかもわからない。特に話題もないし、ちょっと最近あったすごかった報告をするだけ。



別段、なにか別れを言うでもなく、気がついたら、ツイ廃から遠ざかっていました。


だから今回アカウントを消したのは、ツイ廃を精算するだけでない、別の理由があります。


実は去年の夏付近から、とある理由で、ずっと使っていたその垢(=アカウント)で呟くことが窮屈になっていました。

その理由とは、顔を知っている大人とつながってしまったこと。

詳しいことは割愛しますが、やはり大人に見られている緊張感はやばいです。ちょーしんどい。

そして高レベルな大人たちのツイートはプレッシャーでもありました。


結局去年の夏付近、別垢を作りお引越ししました。今やその垢がメインです。


呟くのが気まずくなってしまった旧垢ですが、何年も使った分、思い入れも多少ある。
消すのは惜しいとそのまま放置すること、約半年。



年も明け、とうとう残しておく意味もあまり感じないようになってきました。
思い入れがあっても今や空っぽの垢、時折タイムラインを眺めてみるものの、やはりプレッシャー源となるツイートは多く複雑な心境です。


消そう。

失うものはある。でも痛くはない。
残しておくことで、得る幸福もない。


ふと思い立ち、サラッと、ためらいもなく、削除してしまいました。


あ、なんだろう。このスッキリした気持ち。
大怪我したかさぶたがキレイに剥がれたような、部屋の隅に放置していた粗大ゴミをとうとう捨てたような、そんな気持ち。



さよなら、ツイ廃の記録。

さよなら、黒歴史


今日から新しい自分ってわけでもない。
今日から劇的に何かが変わるわけでもない。

でも、まず一歩。
別れをここに刻むことも、一歩。