もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

年始で心がコケてしまった話

人間てのは本当に難しい。

日々、希望に生かされているかと思いきや、急にやってきた絶望が病のように

心に絡みついて離れない日もある。

 

今日がそうだ。

 

昨日。新年一発目、書き初めをした。生放送で、ガチで。

【謹賀新年】書き初めするぞおまえら!!墨汁は持ったか?じょばばば - YouTube

 

前々(といっても2週間前程度)から温めていた発表を筆に込めた。

 

受肉

 

僕は昨今オタク界隈で流行りのバーチャルユーチューバー、通称Vtuberに去年の今頃からどハマリしている。

最初こそ「バーチャルの身体がなんだ、それだけで人気になれるものか」と斜めにさえ見ていた僕が、まんまと沼にぽちゃんである。

そして、自身のゲーム実況活動、配信活動と隣人のような彼らに憧れさえ出てきた。身の回りでも、ゲーム実況者からVtuberへ転向する人も多く、それによって人気を得てビッグな存在になる例もいくつか見た。焦りも感じてきた。

 

昨年から、Vtuber技術の主流と言われるLive2Dに触れたり、苦手意識を持ったままでも憧れを捨てきれずにいた人物イラストにも向き合おうかと、ペンタブを購入したりもした。

でもやはり、ふんわりとした憧れ、興味だけでは手も進まない。

昨年は大した練習もできず、無論1つのキリが良い成果さえ出せなかった。

 

昨年、大きく躍進できたことは、動画での地味な活動から、頻繁な配信活動が継続できたことだ。

もはや孤独に、一人誰もいない部屋で喋り続けることに慣れていた僕に、ファンと呼べる人さえできた。涙が出るほど嬉しいことだ。

 

その勢いに乗って、年末年始も張り切って配信をしようかと思いたち、元旦にやることを思い浮かんだのが書き初めだった。

 

我ながら、配信は想像以上に盛況だったと思う。

物珍しく捉えてくれる人もいれば、年始の挨拶として顔出してくれる人もいて、いつものファンもいて、なんだか慣れないことをしている感覚さえ忘れてしまった。

 

Vtuberを本気で目指して、イラストとLive2Dの練習を1年かけて気を抜かずにやり抜くことを宣言した。

Vtuberの多くは「苗字なまえ」という感じなので、それに習って新しく「雨東風(あまこち)」という名を考えたりもした。

東風吹かば思い起こせよ梅の花…の東風だ。

風流かつ、発音したときの「こち」のどこか可愛らしい感じも気に入っている。

 

問題はその後、配信を終えた後だ。

詳しくは省くが、当日の配信は実家の一部屋で行っていた。

 

実家には父がいて、あまり長居はしたくなかったが、節目だからと出来上がった習字を見せた。

今思えば、迂闊だったのかもしれない。

 

父はアニメ文化などにはそこそこ通じていて(そのときはチェンソーマンの曲を流していた)年齢にしては理解もある。

だがつい近年、2019年以降盛り上がっているVtuber文化、ましてやYoutuberなる文化は全く馴染みがない人だ。

受肉」という言葉に違和感を覚えたらしい。というか日常生活ではあまり使わない言葉が抱負として出たことに、疑問を感じている風だった。

当然といえば当然だろう。

 

僕はなんとか「Vtuberになること」「バーチャルとしての身体を持つこと」を意味していて、界隈外では周知されていないが、ある種のスラングとして定着しつつある単語であることを説明した。

いわゆるバ美肉バーチャル美少女受肉)だ。そちらのほうがスラングとして有名、かつ造語であることを考えると、素直に「バ美肉」とすればよかったかもしれない。

ただ美少女=男性の僕が女性を演じることと解釈されてしまうので、美少女ではないがバーチャルの身体を得るよ、と表現したく「受肉」となってしまった。

 

父はネットで検索すると、一般的にはキリスト教で、しかも特殊な場面に登場する単語であることを確認し、「宗教的な言葉を使うのは危険である」とすこし説教のように僕に諭してきた。

意図せずとも宗教的な単語を用いることで、宗教関連の活動家などに注目されてしまうのではないか、誤解を生むのではないか、と僕を案じてのことらしかった。

 

意図はわかる。

だが、うーーん。どうだろうか。

 

消化に苦労した。いや今も苦労している。

 

父の意図はわかる。が、実際問題として危惧するようなことは起こるだろうか。

 

 

正直、わからない。

たまたま今起きていないだけで、この先にあるのかもしれない。

 

だがその理屈で宗教関連の活動家が対象を探しているんだとしたら、Vtuber界隈で多く「受肉」という言葉を用いている人すべて、対象にならないだろうか。

自身でイラストやモデリングを担当してVtuber活動することを「セルフ受肉」と表現されるのも界隈では一般的で、実際に「〇〇@セルフ受肉勢」と名前に組み込んでいる方も多くいる。

そういった方々は日々そのようなトラブルに巻き込まれているだろうか。少なくても僕にはそう見えていない。

 

うーーーーーーーーーん。

 

つまりそういうことだ。

 

 

僕が迂闊だったといえば、それはそのとおりだ。

一般的でない単語を、一般の人間に自慢するようなニュアンスで見せてしまった。疑問を持たれるのも仕方ない。

 

だが心が納得しきれていない。

喉の奥に刺さった小骨のような不快感がとれていない。

 

 

心を込めて、全くの邪念なく、掲げた抱負だった。

それにケチをつけられてしまった。

 

それからイマイチ元気が出ない。

心が転んで擦りむいてしまった。

 

 

どうすればよかったのだろうか。

生きていたんだな。

前件の記事を書いて、すぐにこの記事を書いている。

すぐに表に出すのも勿体ないので、明日にでも予約投稿としておく。

 

 

ほんとうに一言だけなのだけど、

 

ブログ、やっていてよかった。

 

 

何度も何度も、もう自分でもうんざりするほど言い飽きたけど、youtubeを主戦場としてはや3年、僕にとってここは負を発散させる場でしかない。

そのことになぜか謝罪というか申し訳無さというか、いたたまれない気持ちが湧いてくるけど、事実としてそうなのだから、仕方ない。

 

それでも、

こうして自分でときたま帰ってくる場所が残っていること、

過去の足跡が色濃く刻まれていること、

それらにかつて共感してくれた人がいたこと、

こうして感傷的になれる時間があること、

感謝してもしきれない。

 

 

別の誰のおかげというわけでもないのだろう。

僕が捨てない限り、これはここにあるし、鍵付きの引き出しにしまっているだけなのだから、開きたいときには開ける。

 

今僕は本当はためていた仕事を片付けなければならないし、その時間を食いつぶしているのは良くないのだが。

 

何が言いたいかって、

少しおセンチになったという話だ。

 

 

僕は相変わらず僕だし、過去も今もどうしようもない僕だけど、

そこそこに生きているよ。

 

だいじょうぶだ。

昨日の僕。過去の僕。

 

別に必死でもなんでもなく、人並みに忙しくて、人並みにしんどくて、人並みに幸せな人生がそこにはあった。

これからもたぶん、きっとある。

 

だからだいじょうぶだ。

きっとこれを読んでくれている、未来の僕も。だいじょうぶ、だ。

Vtuberの中の人・前世に触れるのは悪か?

どーも、久しぶり。

この場所は、僕にとってはもう過去でしかなくて、今を生きる僕にはこんな気持ちでしかここに帰ってくることはなくて、

ここをもし拠り所だったり、親しみを感じて訪ねてくれていた人には、申し訳なく思う。

 

本題に入ろう。

 

ここ1年で最も大きく、自分を揺るがした事件について、消化しきれない思いがあった。

忘れたつもりでいたのだけど、ふとyoutubeを見ていたら、おそらく昨今話題になったであろうVtuberの中の人、だった人がオススメされてしまったため、また思い出してしまった。

どうにも、消化できないため、書かせて欲しい。

 

Vtuberの中の人・前世に触れるのは悪か?

 

僕は、1年前ぐらいにVtuberにハマった。

ファンとしては遅い方であることはわかっている。痛いほどわからせられている。

 

Vtuberという単語が生まれたのが2017、18年頃、ファン人口が拡大したのが20年頃。5-6年の若いコンテンツとはいえ、もはやサブカルを主戦場とするオタクたちには避けて通れぬ大きなコンテンツとなっている。

 

身近に早くからVtuberに注目していた友人らをもつ僕は、その存在と影響力の大きさは2,3年前から感じていた。

 

バーチャルの世界のインフルエンサー

リアルとはかけ離れたアバターを操り、ゲームをしたり、歌ったり。

なんとなく感じていた忌避感をあえて言語化するなら、アバター技術の不完全さ、かもしれない。

 

アニメや漫画を長く摂取し続け、2次元の絵の躍動を見続けた目には、ちらりと見えた彼らの2d,3dアバターのガクガク具合が違和感として写ったのだろう。

 

結局まともにVtuberの配信なぞも見ることなく、避けて来てしまった。

ただの避けている感覚だけはずっとあって、どこか知ろうとしない自分への罪悪感があった。

 

だから、ハマれたときは、むしろ安心さえした。

そのハマり方が、黎明期を知る友人らとは全く違ったとも知らずに。

 

 

話が少し変わるが、

僕は声優さんが好きで、詳しい。

 

アニメをふと見ていてこの声、どこかで聞き覚えが…?と調べだして僕と同じ道へ来た同志は多いだろう。

 

前述の友人たちにはあまり理解されなかったが、僕はアニメのキャラクターと、声優さんを同一視している面がある。

もちろん、キャラクターがこうであったから声優さん本人がこうでなきゃおかしい、またその逆も、みたいな人格を強制する認識を持っているわけではない。

 

ただ、その声優さん本人の性格や、生い立ち、役者としての気概などが、音響監督さんなど多くのスタッフさんの手を渡り、また作品と混ざり合い、結晶化したのがアニメのキャラクターの声だ、と思っている。

キャラクターがあって、そこに声優さんが当てはめられるのではなく、

その声優さんがあって、そこに様々な技術や解釈が加えられて分岐して生まれたのが、アニメ上のキャラクターと思っている。

 

異論は認めよう。

 

ともかく僕の中ではそういう捉え方をして、楽しんでいる。

なので、「あるキャラクターと声優さんが同じである」というのは僕にとっては大きな視聴欲をかきたてられるものであり、

同じ声優さんが担当したキャラクターたちは、さながら推しのアイドルの私生活をみてギャップを感じたような、喜びが僕にはある。

 

無論、同じ声優さんだからといって、キャラクター同士がイコールにはならない。

ただ元となる根っこが同じものではあり、いわば性格の違う兄弟をみて興味深く思うようなそんな感覚があるのだ。

 

 

そんな僕だからか、

Vtuberにハマったきっかけは、声だ。

 

僕の入り口になったVtuber、でびでび・でびる氏の名前を伝えたら、友人は「やっぱりか」と口にした。

 

正確にいうと、声が特徴的だから、が理由ではなく、

特徴的な声を通して、Vtuberの中の人の、話のうまさ、器量の大きさ、エンタメ性、豊富な人生経験などを感じとれたのが理由だ。

 

あえて中の人、と言わずとも良いのかもしれないが、

僕のVtuberの対する感動は、好きなキャラクターの中の声優さんを知った感覚に非常に近しいものだったのだなと、今は思う。

 

 

大手Vtuberグループ「にじさんじ」を中心に僕のVtuberブームは加速していった。

 

そして、事件は起きた。

 

 

今思えば、Youtubeのオススメ機能が憎くてしょうがない。

にじさんじばかりを見ていた僕のyoutube画面に、ふと実写の女性ゲーム実況者とみえるチャンネルが表示された。

 

なんの脈絡ないそれに、僕は最初少しの違和感を覚えただけだった。

 

少し経って、なんのきなしに画面をスクロールしていたら見えてしまった。

にじさんじで既に引退したVtuberと、あまりにもよく似たキャラクターの絵柄と、その特定のVtuberの代名詞だったであろう特徴的な顔の表情のサムネイルが。

 

おもわずクリックしてしまった。

そして聞き覚えのある声。間合い、息遣い。

 

驚いた。

感動した。

 

そしてためらわず、それを友人たちに報告してしまった。

 

 

今思えば、その報告と、そしてその後のやりとりの言葉選びは最悪だった。

 

友人たち、というか主に一人のそのVtuber推しであった友人Hの地雷を踏み、烈火のごとく罵倒された。

 

いや、罵倒というほどではなかったかもしれない。

慈愛を含んだ忠言、諭しだったかもしれない。

 

 

あまりのショックに、詳細は今もあまり思い出せない。

 

 

 

結果だけいえば、僕があまりの無神経に友人の地雷を踏み、然るべき制裁を食らっただけだ。

それについては、不徳の致すところであるし、蒸し返したいことなどなにもない。

 

 

ただ、

それから時間ができる度に考えてしまう。

 

それをタブーとするファンが多くいると理解した上で、

Vtuberの中の人触れるのは悪だったのだろうか?

 

僕のように、Vtuberを中の人をある側面で同一視するのは、悪だったのだろうか?

 

ありとあらゆる場所で、Vtuberの中の人触れるのは悪なのだろうか?

たとえば、同僚のちょっとした愚痴を居酒屋でこぼすような、有名アイドルの良くない噂を世間話ついでに話すような、そんな些細な小出しも許されないものだろうか?

 

 

 

まったく、youtubeのオススメ機能くんは大したもので、

つい昨日だか一昨日から、別の引退したVtuberとおもわしき中の人のアカウントが僕のyoutube画面に出てきている。

声で、一発で確信してしまった。

 

また思い出してしまったじゃないか。

 

 

 

こうして思いの丈を綴るうち、僕も冷静になってきた。

 

 

結論は、おそらく悪ではない。

 

というか、僕が事件で痛い目にあったのは、最悪の相手、タイミング、言葉だったのが理由だ。

 

同僚のちょっとした愚痴も、

有名アイドルの良くない噂も、

まさか本人や身内、そのファン相手にすることなど誰も想定しない。やらない。

 

 

きっと時と場所と相手を選べば、口を開くことは許される。

 

現に、「Vtuber 中の人」と調べれば数多くの情報が出てくる。それだけ人の興味を惹く内容なのだ。

 

 

ただ、気軽にTwitterなどで呟くのは堪えねばなるまい。

僕のまわりではVtuber好きの人が多くて、油断はできない。いまだに事件のトラウマで恐ろしくもある。

 

 

問いかけておいて、勝手に自己完結してしまい申し訳ない。

 

僕と同じような出来事があった人、同じ感覚が少しわかる人、

いたらいいなぁ。

 

もしいるなら、なんだか少し救われる気分だ。

最近の炎上のあれこれについて思うこと

某有名Vtuberが燃えた。

その後、近い界隈でもいろいろと火がついているのを見た。

 

僕は、別にその人のファンであったわけじゃない。

なんなら今回のことが起きるまで、さほど認知もできていなかった。

 

そんな離れた位置に僕ですら、どうにも、違和感がある。

 

事の発端とか、経緯とか、結末とか、そういうのはどうでも良い。(いや、関係者にとってはまったくもってどうでもよくはないんだが)

僕が違和感があるのは、なにか一つ、後ろ指刺されるような事柄、失敗があっただけでここまで滅多打ちされてしまうインターネット環境にだ。

 

違和感というか、嫌悪感というか、恐怖かもしれない。

 

昔からネットという場所はそうだっただろうか。

たまたま、自分の活動場所が近い、観測点が近いところで火事が起きたから慌てているだけど、芸能人というのは昔からそういうものだっただろうか。

 

わからないので、確かなことは何も言えない。

 

 

でも、なんというか、あまりにも、可愛そうな話だと思ってしまった。

 

極端な話、誰かを直接的に傷つけたとか、被害者がいたとか、そんな話でないのに。

 

いや、仮にそうだったとしても。

 

なんというか、僕らの社会には法律という一定のルールが敷かれていて、それをベースにした犯罪と刑罰があって、

そんな立派な仕組みが先人たちの努力、あるいは今もなお尽力している誰かのおかげであるというのに、

それ以上の糾弾が必要なことってあるのだろうか。

 

例えば芸能人の不倫やら、離婚やら、

随分と世間的に騒がれたり、過激な意見を見たりするけれど、正直わけがわからない。

 

当事者の問題で、いいじゃあないか。

僕ら無関係な市民が、仮にファンとはいえ赤の他人が、プライベートのあれこれに何をもってずけずけと踏み込んで声を張れるというのか。

 

 

どうにも、ネットを見ていると、自分の理解できない過激な意見に頭がクラクラとしてくる。

インターネットが向いていないと思う。

というか向いている人間ってなんだ。そうやって受け手の気持ちをガン無視して石を投げられる人間が向いているのか。

ふざけた話だ。

 

まぁ、わかっている。

僕がここで怒っても、感情をぶつけても、世界は変わらない。

僕が憎しと思っている人たちの耳にはきっと入らない、届かない、変えられない。

 

僕も僕とて、なんだかんだ言いつつインターネットなしでは行きていけない、呪いに囚われた人間だ。

こういう性質があるメディアだと、理解して、付き合わなきゃいけないことはわかっている。

 

でも、僕にだって、一言ぐらい物申す権利ぐらいあるだろう。

 

本当に、想像力の足りない人間が多すぎる。それを恥じない人間が多すぎる。

逆上して石を投げる前に、落ち着いて見てほしい。今自分が投げようとしている先に誰がいるか。どんな状態にあるか。どんな気持ちでいるか。

ただでさえ深く後悔しているのに、自分で自分を傷つけているのに、さらに追い打ちで石が飛んでくるんだ。想像してみてくれよ。

君が怒り悲しむように、誰だって、アイドルだって芸能人だってVtuberだって怒り悲しむんだ。間違えるんだ。

どうしてそれを許せない。どうして想像できない。

 

いつだって損をするのは相手を許す側だ。

君等は小学校の教室から何も進歩しちゃあいない。軽い気持ちでいじめに加担していたあの頃から何も。

僕にとっては趣味は仕事で、仕事は趣味に含まれるけど、基本楽しくない。

ふと自分の中のもやもやが言語化できそうなので、残しておく。

 

「僕にとっては趣味は仕事で、仕事は趣味に含まれるけど、基本楽しくない。」

 

僕はしがないWebエンジニアをしている。

ことコロナ禍では外出の必要もなく、家でPCに向き合って黒い画面をカタカタとやっている。

エンジニアという職をよく知らない人には、SEなんて言われたり、人と関わらない仕事だねとか思われる(偏見)けど、めっちゃ人と関わるしコミュ力消費する。

なんせ大規模なものづくりは物理的に一人ではできないし、受託制作の弊社は、仕事を取ってくる人、デザインをする人、コードを書く人の最低でもスリーマンセルで案件が動く。

当然コミュニケーションはすごく発生するし、お客さんの求めるものづくりを要求される我らは、お客さんとも綿密なコミュニケーションを必要とされる。ときにはそこでトラブルや行き違いもおこる。

そんなストレスフルな日々を、僕はときに黒い画面でPCと仲良くし、ときに人とも意見を交わし、楽しく苦しく過ごしている。

 

まぁ僕の職説明はこれぐらいでいい。

 

なぜ僕はエンジニアになったのか。

それは、僕が楽しいことしかしたくないから。できないから、と言い切ってもいい。

 

世の中には、仕事は仕事、遊びは遊びと頭を切り替えられる人がいると言う。身内にもいる。

だが、僕には、その感覚は理解できない。学生の頃から、今も、ずっと。

 

だから、僕は勉強が向いていなかった。正確には、受験としての選択肢が狭い勉強は向いていなかった。

だから浪人もした。予備校も転々としたし、親には心労をかけた。

 

勉強が楽しい、と感じる瞬間はときどきあった。でもそれは気まぐれで、まばらで、根本的に勉強に気持ちが乗っていなかった。親を満足させるため、勉強のふりばかりした。心はそこになかった。

 

受験の話はもういい。

とにかく、僕は気持ちが乗らないと、「これがやるべきことだ」と目の前に本を積まれても一切動けないタイプの人間なのだ。

だから、就活なんて直感的に無理だとおもったし、ふと触ったプログラミングが楽しくて、これならば親も社会も納得するだろうと、その道だけを歩いた。

 

まぁ、同年代でその道を極めた人はきっと星の数ほどいて、僕にとってそれは天職ではないだろうと最初からわかってはいたけど、とにかく、これならなんとか飯が食えそうだと思えたんだ。

だから、エンジニアになった。なれた。

 

一番の趣味ではないけれど、趣味の一角と、社会の需要の唯一の接点がそこだった。そうなるしかなかった。

 

で、今。

社会人となって3年目の僕は、心を壊しかけた。

もともと壊れやすいガラスの器ではあるのだけど、ためにためたフラストレーションが、泥のように溢れ出してヒビが入った。

 

入社してすぐの頃は、希望を持てていた。

お客さんがいて、僕ら作り手がいて。一緒にお客さんのビジョンを叶えよう、体現しよう、創造しよう。夢のある仕事だと思っていた。

 

でも実際に担当する仕事の多くが、お客さんの顔が見えず、意図が見えず、ただ何度も何度も氷のような冷たい言葉の修正指示が降ってくる日々。

もう、何がしたいのか、何を作っているのかわからなかった。

 

そして僕は諦めた。

仕事は、仕事である。

仕事は、楽しくないものである。

仕事は、淡々と目の前のタスクをこなしていく作業である。

 

エンジニアリング自体が、もう趣味の輝きを失っていた。

 

 

そして僕はゲーム実況に目覚めた。没頭した。

まぁそれはそれで、ストレスフルな日々だが、運動後の汗が心地よいように、心地よいストレスだった。

これぞ趣味。これぞ輝きという感じだった。

 

 

なんだか回想になってしまったが、
僕にとって仕事(エンジニアリング)は趣味の一角であって、でも楽しくなくなっていった。その穴を埋める形で、ゲーム実況という大きな趣味を持った。

 

 

で、言語化したかったのは、この趣味→仕事の流れについて。

 

ふと見てしまった同僚A氏の呟きを共有したい。

趣味が活かせて嬉しいとか趣味だから〜みたいな感情はほぼないなと思った
趣味だったら自分の満足した時点で終わりだけど、仕事だとそれ相応のクオリティが求められるし
取っ掛かり(きっかけ)は趣味だけど、その後私の中で趣味と仕事は交わらないな

 

このA氏が、前記事で言及していた後輩なのだが、

僕はこのA氏に強い嫉妬を抱いていた。

 

なぜならA氏の趣味(の延長で仕事になったもの)は上司にはちゃめちゃに評価されていて、

一方僕は、ついぞエンジニアリングについても、趣味についても、評価された記憶がない。

 

というか基本上司はエンジニアリングの人ではないので、評価する立場や理解はないが、A氏についてはやたらと褒めるのだ。

もっともそれは、上司が個人的にやっている事業にA氏のスキルが活かせるからで、
なんというか、お門違いな嫉妬なのかもしれない。

 

僕がA氏に嫉妬したのは、A氏が僕と同種の、「趣味→仕事」人間だと判別していたからというのが前提にあるのだが、

上記の呟きを読むと、別種であると理解できた。

という話をしたかった。

 

A氏の中では、同じクリエイティブな作業でも、趣味でそれをするのと、仕事でそれをするのとは全く交わらないらしい。

理解できないわけではない。

おそらくA氏の境界線は、「発生する責任」なのだとおもった。

 

趣味でするクリエイティブと、仕事で求められるクリエイティブ。

A氏にとって、趣味はさほど責任なく、自由に触って自由にやめられるもの。仕事は責任があり、最低でも合格60点のクオリティを保証しなければならないもの。

 

 

僕は、違う。

なぜかというと、僕のゲーム実況は、常に100点を目指すクリエイティブをしている。

 

張り合おうというわけではない。

 

ただ「発生する責任」において、言い換えるなら「目指すクオリティ」において僕は仕事以上に趣味で燃えている。

 

もちろん、所詮趣味だ。10点だろうが、20点だろうが、自分が満足すれば放り出していい。確かに責任は発生していない。

だが、僕は、何より自分の満足が常に100点の位置にあるんだ。

 

愚かだと思うし、本末転倒だとも思うが、
僕はクリエイティブに、何があろうとも100点を求めてしまう。責任はなくとも、自分自身が許さない。

 

そういう意味で、僕の趣味は仕事よりも仕事らしい重さを持っている。

だから、逆転しているのかもしれない。

 

僕にとって仕事はどうでもいい。

確かに責任はあるし、それを果たそうとは思う。

でも、それは、僕を熱くさせない。つまらない。

つまらないことには60点で十分だ。

 

楽しいことにこそ、100点を出したい。目指したい。燃える。熱くなる。

 

逆に言えば、仕事でたまに楽しいときは、燃える。

僕はそんな社会不適合者だ。

 

「僕にとっては趣味は仕事で、仕事は趣味に含まれるけど、基本楽しくない。」

 

 

 

書いてて思ったけど、いつの間にか責任の話が目指すクオリティの話になっていて、今の興奮している僕は、なにか話を捻じ曲げているのかもしれない。

 

日にちが経ったら、読み返そうとおもう。