一人称に困る
あのさ、一人称ってめっちゃ困らない?
家と外で一人称変わったりしない?
時々間違えそうになって焦ったりしない?
俺って昔、自分で「俺」って言えなかったんだよね。
なんか俺キャラじゃねぇなって思ってた自分がいたんだよね。
かといって「僕」も気に食わなかったんだよね。大人に対しては使ってたけど、それも友達に対して言うのはなんかしっくり来なくて。
んで、結果俺は高1のときまで自分のことを「うち」と呼ぶ少年だったのです。
女子かよ!!!
主に関西の方の!!!
でも当時の自分はなぜかしっくり来てたみたい。なんでだろ、もうしっくりこないんだけど。
あと思ったのがね、文章上だと僕って一人称コロコロ変わっちゃうんだよね。
僕だったり、俺だったりする。
ほら今も。
会話っぽい語りだったりするからかな。
女子だとこう「〇〇(下の名前)は〜」って自分のこと呼ぶ子いるよね。
まぁ悪くはないんだけど、なんていうのかな、少し馬鹿っぽさ感じちゃう。
普段は「わたし」で家では下の名前、ってなら可愛げあっていいと思うけど。
女子で僕とか俺とかそういうのは二次元の話でしょ、とか思いきや何度か「俺女子」見たことあるんだよね。いや、いるとこにはいるんだね、ほんと。
今日はそんだけっ!
おしまいっ!!
ネットがリアルになる怖さ
ネットで悪口を言ったらきりがない。
そしてそれがリアルの人間関係にまつわることで、それが相手に見つかる恐ろしさ。
久しぶりにネットの怖さ、正確にはリアルとネットが混ざる怖さを目の当たりにした。
とあるブログで、ものすごい他のブロガーさんのことを批判した記事があった。
リアルでオフ会をして、そこで男女間のトラブルがあったようだ。
それに対する反論の記事もあった。
その細かな経緯を第三者に解説する記事もあった。
似たような光景を、去年ツイッターでも見かけた。
俺がぼんやりと籍を置いていたツイッターの浪人界隈。
そこでも男女関係をめぐるトラブルがあった。
悪口が飛び交っていた。
それは見ていて心地いいものではなかった。
ブログでもやっぱりあるんだ、そういうの。
いや、きっと、ネット中あらゆるサービスでそういうのはあるんだろうね。
出合い系とか、そういうんじゃなくてもあるんだ。
そう考えると、俺は、色んな意味で運が良かったのかもしれない。
そんな何が起こるかわからない複雑な人間関係の中、ネット恋愛なるものを堂々とやっていて、それをステータスとさえ思い込んでいたのだから。
今こうしてネットだけではない人間関係が充実しているのはとてもありがたいことだ。
たぶんだけど、そうやってネットでいろんなものに飢えている人たちで、リアルの人間関係にすごく恵まれている人は少ないだろう。
ネットで存在感が大きい人達は、そこにいる時間が長いから存在感が大きい。ネットに割ける時間が多い人達は、つまりそれだけ時間に余裕のある人達だ。つまりリアルで過ごす時間が短い人達だ。
全員がそうとは限らない。けど、そういう傾向が強いのは間違いない。
一年前の俺がそうだった。
今はそうじゃない。本当に、本当に、ありがたいことだ。
ネットがリアルになる、ネットが自分の全てになる怖さをひしひしと感じた。
そうやって生きている人も世の中にはたくさんいるし、それが不幸と決めつけるのは傲慢だ。
だけど、どこかで足場を踏み外すとそんな闇に堕ちてしまうとも限らない。
自分がそういう精神的に危ない時期を経験したからこそ、似たような状況を見てしまうと胸が痛む。「なんとか力になりたい」と心が叫ぶ。
でも、できない。
俺は常に差し伸べられる手を渇望していたけど、それが全員とが限らない。余計なお節介かもしれない。迷惑かもしれない。屈辱かもしれない。
結局「今日も世界は光と闇があるなぁ」って感慨深くなって、一日が終わる。
今日も、明日も、その先も。
光にいる多くの人がそうだろうし、あるいは何も感じないかもしれない。
だけど明るい道ばかりを歩いてきたより、暗い道の景色も知ってることはなんか得をしていると自分で思う。
暗くて寒い場所を知っているからこそ、今が暖かくて明るいと感動しながら生きていける。
おしまい。
人は簡単に傷つける、だからこそ癒す人でありたい
人は簡単に傷つける。
人を傷つけるのは簡単。
それでいて、できあがった傷は癒やすのが難しい。
誰も傷つけずに過ごせたらどれだけいいだろう、って何度も思った。
でも無理なんだよね。知ってたよ。
悪意の有無に関わらず、人は簡単に傷ついてしまう。
その事実がただ悲しい。
こんな俺でも、「こいつなんか傷ついて当然だ」って言葉の刃を抜くことがある。
全くそんな意図がなくても、ちょっと気をゆるめたら目の前の誰かが傷だらけだったりする。
どうしたらいいのかな。
人が傷つくのを見るのは痛い。
大事な人ならもっと痛い。苦しい。
だから傷をつけないように、言葉が棘にならないように、すごい注意して生きてきた。
それでもきっと傷つけてしまう。
「それは生きていくうえでしょうがないことだよ」って声が自分の中から響いてくる。
わかってるよ。でも、なんとかしたいよ。
「じゃあ傷つけることをなくすのは諦めよう」
そんな、じゃあどうしろって言うの。
「傷つけるのと同じくらい、いやそれ以上に人の傷を癒せる人になればいいんだよ」
そっか、そうだよね。癒やせる人になればいいんだ。
嫌いだった「リア充」に自分がなってみた結果
昔、といっても数ヶ月前だけど、こんな記事を書いた。
実はこの記事、このブログで一番アクセス数が多い記事みたい。
やっぱり「リア充」ってワードで検索する人は多いんだね。
この結果をたまたま友人に見せたところ「実際になってみてどうよ」とふられたので、それを書いてみようと思う。
というか、まぁこの記事、「リア充が嫌いだ!嫌いだ!嫌いだ!うおおおお!」とか言いたかったわけじゃないんだよね。
簡潔にまとめると、「なんか今を楽しんでる奴ら、だいたい昔から勝ち組だし羨ましいんじゃボケぇ」って言いたかった。
うぇいは相変わらず嫌い、というか苦手。なんかバカっぽくて苦手。頭いい人も中にはいそうだけど、やたら騒いだり目立ったり、コスパがどう考えても悪いと思う。自分にも相手にも百害あって一利なし。
でもリア充は、まぁやっぱり見せつけられると「うぬぬぬ」ってなるけど、それと嫌いとはまた別。
「リア充になった感想はどうですか?!」とか突撃インタビューされても
「あっ…その…今、めっちゃ幸せです♡」みたいにしか返せない。
幸せなものは幸せなんだからしょうがない。
だから別にそのことに対して「けっ、このリア充が!!」とか毒を吐かれても
「えへへ…どうもすみません…」みたいにしかならない。
ふざけてさっきツイートしたけど、まさに思ってることはこれで、周りがいくら騒ごうと「まぁいっかな」って思えてしまうのがリア充という感覚みたい。
「リア充爆発しろ」って言うけどさ、それを言われること自体がそういう立場になったってことで心躍る感じあるし、もう非リアがリア充にダメージ与えることって不可能なんじゃないかなって思ったんですけど、たぶんこんなツイートをしたらリアルの方で俺が炎上させられますね、調子乗ってごめんね文字数
— メープルもみじ (@robibon1) 2015年11月17日
ただ、リア充を親の仇のように憎んでいる人がいたとしたら、それはなんかすごく悲しいことだなって思ってしまった。
人の幸せを妬んでも、結局そのことで自分が幸せになることはない。
もし誰かに負の感情をずっと持ち続けて、それで幸福を手に入れた人がいるなら是非話を聞かせて欲しい。
俺にはそれが可能とは思えないから。
たぶんこれは俺の性格なんだろうけど、人を嫌いたくない。
誰かを悪く言いたくない。人だからそれぞれに短所はあるけれど、でも「それでもいい奴なんだよ」って言いたい。
冴えないリア充から言えることはこれくらいです。
たぶんみんな、いつか「リア充爆発しろ!」とかそんなことどうでもいいな、って思えることを願って。
おしまい。
写真の良さがわかってきた
いつからか、特に人の写真が嫌いだった。
父が出かけるとよく写真を撮りたがる人で、子どもの頃、小学生ぐらいだろうか、それを煩わしく思っていた。
友達や赤の他人でも、どこかに着くたびに写真を撮りたがる人を白い目で見ていた。なにがそんなに楽しいのだろう、と。
その良さ、ありがたさが最近になってわかってきた。
去年のいつだったか、パソコンのアルバムで見たことのないフォルダを見つけた。父が昔撮りためていた写真が同期されたフォルダだった。
開くと懐かしい気分になった。
特に母の顔をもう何年も思い出そうともしなかった自分は、そこに写る過去の家族の笑顔を複雑な表情で眺めていた。気が付くと少し目が潤んでいた。
過去を写真で振り返るだなんて、そんなことをした試しがなかったけど、そこで初めて父に感謝した。煩わしく思っていた自分を恥じた。
今年始め辺りから、俺はツイッターで祖母が作ってくれたご飯の写真をupしていた。単純に「我が家の家庭の温かい食卓」を自慢したかった。
これが思いの外反響が良く、「どうやったらそんなに美味しそうに撮れるのか」という質問までされて驚いた。この辺りから自分で写真を撮ることに抵抗がなくなってくる。
抵抗がなくなってくる、というか、そもそも今までは「写真に撮りたい」という欲を刺激される経験が圧倒的に少なかったし、撮ったところで流れるように過ぎてしまうだけだった。
なぜか自分他人関わらず、人の写真を撮ることに抵抗があり、そういう写真がスマホのフォルダに並ぶようになったのは本当に最近だ。
もしかしたら単に、自分が思い出にとっておきたいような写真を撮る機会がなかったからかもしれない。
おそらく大学に入って充実した人間関係のおかげだ。
削除するには惜しいと思えるようになる写真が増えてきた。
そして彼女の影響もあったりする。
写真をたくさん撮る(俺が少なすぎるのかもしれない)彼女で、特に猫の写真にはものすごいこだわりがある。そして、それらは整理されており、その一部をよく見せて楽しそうに語ってくれる。
写真を見返す楽しさを教わった。
そもそも撮ったところで共有されない写真がいっぱいだったのだ。
彼女という存在の価値はこんなところにもあるのかもしれない。
お互いの出来事を、歴史を交換するのに写真が財産になるということに気付かせてくれた。
こないだ、初めてカップルのツーショット?のようなものをした。とても引きつった笑顔で、目線も不自然で、その出来栄えに二人して笑ってしまった。
あぁ、なんか惚気みたいになってる。ごめんなさい。
とりあえず、写真の良さがわかってきたって話。
おしまい。