もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

写真の良さがわかってきた

いつからか、特に人の写真が嫌いだった。

 
父が出かけるとよく写真を撮りたがる人で、子どもの頃、小学生ぐらいだろうか、それを煩わしく思っていた。
 
 
友達や赤の他人でも、どこかに着くたびに写真を撮りたがる人を白い目で見ていた。なにがそんなに楽しいのだろう、と。
 
 
その良さ、ありがたさが最近になってわかってきた。
 
 
去年のいつだったか、パソコンのアルバムで見たことのないフォルダを見つけた。父が昔撮りためていた写真が同期されたフォルダだった。
 
開くと懐かしい気分になった。
 
特に母の顔をもう何年も思い出そうともしなかった自分は、そこに写る過去の家族の笑顔を複雑な表情で眺めていた。気が付くと少し目が潤んでいた。
 
過去を写真で振り返るだなんて、そんなことをした試しがなかったけど、そこで初めて父に感謝した。煩わしく思っていた自分を恥じた。
 
 
今年始め辺りから、俺はツイッターで祖母が作ってくれたご飯の写真をupしていた。単純に「我が家の家庭の温かい食卓」を自慢したかった。
 
これが思いの外反響が良く、「どうやったらそんなに美味しそうに撮れるのか」という質問までされて驚いた。この辺りから自分で写真を撮ることに抵抗がなくなってくる。
 
抵抗がなくなってくる、というか、そもそも今までは「写真に撮りたい」という欲を刺激される経験が圧倒的に少なかったし、撮ったところで流れるように過ぎてしまうだけだった。
 
 
 
なぜか自分他人関わらず、人の写真を撮ることに抵抗があり、そういう写真がスマホのフォルダに並ぶようになったのは本当に最近だ。
 
もしかしたら単に、自分が思い出にとっておきたいような写真を撮る機会がなかったからかもしれない。
 
 
おそらく大学に入って充実した人間関係のおかげだ。
 
削除するには惜しいと思えるようになる写真が増えてきた。
 
 
そして彼女の影響もあったりする。
 
写真をたくさん撮る(俺が少なすぎるのかもしれない)彼女で、特に猫の写真にはものすごいこだわりがある。そして、それらは整理されており、その一部をよく見せて楽しそうに語ってくれる。
 
写真を見返す楽しさを教わった。
 
そもそも撮ったところで共有されない写真がいっぱいだったのだ。
 
彼女という存在の価値はこんなところにもあるのかもしれない。
 
お互いの出来事を、歴史を交換するのに写真が財産になるということに気付かせてくれた。
 
 
こないだ、初めてカップルのツーショット?のようなものをした。とても引きつった笑顔で、目線も不自然で、その出来栄えに二人して笑ってしまった。
 
 
あぁ、なんか惚気みたいになってる。ごめんなさい。
 
 
 
とりあえず、写真の良さがわかってきたって話。
 
 
 
 
 
おしまい。