飲み会は苦手で、誰かと飲みに行くのがいい
タイトルだけだと、いまいち伝わらなかったかもしれないので、補足説明しますね。
俺は飲み会がたぶん苦手です。
「大勢で飲みながら交流を深めましょう」みたいなコンセプトがまず苦手。
人と関わってないと息苦しいくせに、誰かに「人と関わりなさい」って言われると押し付けがましくて、突っぱねたくなっちゃう。
というか、まず話したことのない人に話しかけるなんてのが無理。もう圧倒的に無理。
例えば相手も一人でたまたま隣の席に座って、みたいな状況だったらまだ勇気を出せる。でも飲み会ってそうもいかない。
あらかじめ仲の良い人達が固まって、そこでわいわいと盛り上がっている。
そんな中に1人飛び込んでいく勇気はない。飛び込んだとして、「お疲れ様でーす」とジョッキをぶつけてくるので精一杯。
そもそもそんなに多くの人と関わる元気がない。
それに比べたら普通に飲みに行く方がいい。
飲みに誘える仲の人らとお酒の力も借りつつ、語り合いたい。
多くて4、5人ぐらいがいい。サシで飲むのも良い。同じ話題を共有できる程度の人数がいい。
多すぎる人数といると疲れる。
なんでこんな話をしてるのか、というと、こないだ(数週間前)サークルの飲み会があったから。
思い返すと仲の良いメンバーだけで食べて飲んで終わった会だった。
楽しかったのだけれど、「飲み会のコンセプトから外れたことをしたのだろう」っていう罪悪感でモヤモヤする。
だからといって勇気が出せるわけでもない。
たぶん、これが社会不適合者的な思考なのだろう。
言い訳なのだけれど、他人に「お前ら仲良くしろ」って言われて仲良くできるものなのだろうか。
機会を与えてくれるのはありがたい、けど、それを活かすことを強制されるのはなんか違う気がする。
モヤモヤして、でも気付いたらこんなモヤモヤも忘れて、また何かをきっかけにモヤモヤする。
ずっとそういう、繰り返し。
「ありがとう」を何度でも言いたい
ありがとうって伝えたい。
俺は感謝という感情が大好きだ。
感謝は何も負を生まない。
「ありがとう」って言われて悪い気分になる人はたぶんいない。
「ありがとうございます」だとなんか固くて、お店の人がいう「ありがとうございました〜」みたいな機械的に聞こえるからちょっと嫌だ。
「あざーす」とか「あじゃじゃしたー」はなんかチャラい。
「かたじけない」は武士みたい。
ストレートに「ありがとう」って言いたい。
いろんな人に言いたい。
笑顔で言いたい。
笑顔は笑顔を生む。
「ありがとう」って言われたい。
言われると思わず照れちゃう。当たり前のことでも、やっぱり嬉しいのだから仕方ない。
感謝はしようと思えば何にでもできる。
最悪「生きててありがとう」って言える。
…なんか今日の俺詩人みたい。
友達とかいう人生の宝
こんばんわ、お久しぶりです。もみじです。
今日は友達の話をします。
「友達の話をします」とか言っても、誰か特定の個人の話をしたいわけでなく、単純に「友達」っていう存在について思うところを話します。
このブログで語ることのほとんどが傾向が見られるのだけれど、俺には思い浮かべる過去があんまりない。
過去として比較されるのはつい一年前のことばかり。それ以前の過去の話はほとんどない。
以前の過去の話で出てくるのは内省とか家庭環境とかそういう話ばかりで、中学高校に「こんな楽しいことがあったんだよ」なんて話は一度も出てこない。
今思うと、「俺って数年前何してたんだろう」って感じなんだ。
様々なことに悩み苦しみ、言葉にし始めたのは全部去年。それ以前の自分がどんな自分だったのか、それ以前の自分がどんな思考をしていたのか、実感として思い出せない。
俺はぼっちだった。
それは去年の話。
それ以前はぼっちではなかった。友達はいた。
けどその友達とはどこか距離を感じる。遠く感じる。
よく覚えていない。
それほどに去年の一年が濃すぎて、それ以前の自分が全てリセットされたような、そんな感覚がある。実際、人間関係はほとんどリセットされた。
何が言いたいかって、俺の今が異常なほど充実しているということだ。
過去の自分(として思い出される一年前の自分)と明確に違う立ち位置にいる。
ぼっちの思い出なんて後生大事にとっておくものでもなんでもない。
現に俺は忘れている。意識しなければ、もう二度と思い出さない記憶として深いところに沈殿していくのだろう。
ただ俺は、まだ過去の原因にすがる癖が抜けていないようで、ときたまその沈殿しかけの記憶をすくって思い出そうとする。
「ある金持ちは自らの豊かさを忘れないようにスラム街を歩く」なんて話をなにかで読んだことがある。
それと似ている。
自分が恵まれていることを忘れちゃいけない気がするんだ。もし少しの運がなければ、俺はこの場所に立てていなかったかもしれない。
最近、周囲の人に生かされている、と感じる。
俺はずっと心の拠り所として彼女の存在を希求していたのだけれど、それが叶って余裕ができたのか、周りのことが少しずつ見えるようになってきた。
多くの人が自分を慕ってくれている。自分と関わってくれている。
これは幸せなことだ。
少なくとも俺の中で、人間関係が心の安定と直結しているのだ。
こうも上手くはいかない人達もたくさんいるのだろう。
これがどうか学生時代だけの儚い夢とは、なってほしくない。
一人一人が偶然の出会いだけれど、その繋がりを大切にしたい。
今の感じが、最高に楽しいんだ。
今、俺はものすごく「生(せい)」を感じている。
生きている感じがする。活きている感じがする。
俺はかつて、「生きづらさを抱える人達の集まり」なるものに参加していた。
初回参加したっきりで、それ以降は都合が上手く合わず参加できていない。おそらく今の僕が「参加します!」と言ったら彼らは温かく迎えてくれるだろう。
けど、思うんだ。
彼女もいて、友達もいて、サークルも楽しくて、やりたいことがたくさんあって。
そんな僕がいていい場所なのだろうか。もう僕の生きづらさなんてどこにもないんじゃないのか。
生きづらさに苦しんで逃げてきた人たちの避難場所であるはずの場所が、逆に馴染みにくく感じてしまう自分がいて、悩んでいる。
ツイ廃という空っぽの冠
ツイ廃やめてぇ
正確にはツイ廃を自分のプロフィールに組み込んでる自分をやめてぇ
こんばんわ、今日も悶々と生きてるもみじだよ。
みんなツイ廃って知ってるかい?
いや…もうなんかいいや、そこら辺の説明は。今まで死ぬほどしてきた気がする。うんざりだ。
とにかくツイ廃名乗るのをやめたいんだよ、俺は。
やめたらいいじゃん。
よし、じゃあ宣言するぞ!
今日から俺はツイ廃じゃない!!
俺はツイ廃じゃない
俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない
俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない
俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない
俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない俺はツイ廃じゃない
よし、これで自己暗示ばっちりだね。
だってさ、最近「ツイ廃アピールがうざい」ってめっちゃ言われるんだもん。
いや、めっちゃでもないけど。ほんの数人だけど。
まぁおかげで、自分がいつまでも「ツイ廃」っていうキャラにしがみついてアイデンティティーを保とうとしてることに気付けたから、ありがたい話なんだけどね。
正直さ、目の前で「俺って実はツイ廃でして…」みたいな自己紹介されたらどうよ?
…ドン引きするよね。そりゃあ。
よく考えたら俺ってばそんなドン引き確定墓穴掘りルートまっしぐらだったのね、あぁ末恐ろしい。
たぶんおかしな大学デビューをしたせいだよ。
ツイッターなんかでどんどん声かけては会って友達になるなんておかしなことするから。
いや、それ自体はまだいいんだ。
そこで一部のツイッターの闇を知らない一般ユーザーから「TLがお前しかいないんだけど」みたいなこと言われちゃったから、図に乗ったんだ。
ていうか最初はアピールするつもりじゃなかったんだ。
単に「俺ってうるさい奴だよ」って警告を発してるだけのつもりだったんだ。
いつの間に短所を長所に勘違いしたんだろう。
おまけに「ツイ廃じゃないよお前ごとき」とか言われるとムッとしちゃう変なプライドまでついちゃうし、ああやだやだ。
依存度が高いのは紛れも無い事実だよ。
その癖が抜けないで、ずるずるとここまで来てしまった。
いや、実のところその悪癖はかなり抜けている。
闇ツイートなんてほとんどしなくなったし、思考を吐き出す長文ツイートも格段に減った。
それでも…まだ捨てられる気がしないんだ。
なんでかな。
以前書いた記事を読み返した。
昔から全く変わっていない…かというとそうでもなかった。
変わった部分も確かにあって、変わってない部分もある。
全部変えるのが正解なのか、現状維持が正解なのか、はたまた時の流れに身をまかせるのが正解なのか。
空っぽの冠とわかっているのに。
そこになんの価値もないのに。
でも自分で被ってしまったその冠にどこか愛着があって、その頭に乗っている重みに慣れてしまって、なかなか外すことができない。
もしかしたら、これは、いばらの冠だったのかな
たぶんこれからもツイッターには居続けるんだろう。
それは闇を吐き出すから必要とかじゃなく、周囲の人とのコミュニケーションのための場所だから。その人達とつながっているのが楽しいから。
だからこそ、この冠はもういらないんだ。
捨てるよ。そう決めたから、そうする。
空っぽの自分が怖かったんだ。ただそれだけなの。
俺を俺と証明する何かが欲しかった、ただそれだけなの。別に誰かに好かれたいとか、そういう意図じゃないの。
もっと知って欲しかったの自分を。もっと知って興味を持って、近づいて来て欲しかった。承認して欲しかった。
でもその役割は十分に果たされた。
だから、ばいばい、ツイ廃。
オーディションに落ちた話【アカペラ】
実は一昨日、オーディションの結果発表がありました。
なんの発表かというと、俺が大学で所属しているアカペラサークルで、学祭に出れるかどうかのオーディションの結果発表です。
アカペラは何人かでバンドを組んで、それぞれが声で違う音を出して「ハモる」合唱、楽器を使った伴奏のない音楽です。
歌詞を歌うリードボーカル、それに合わせてハモるコーラス、低い音を出すベース、リズムを取るボイスパーカッション(いわゆるボイパ)があります。
「ハモネプ」なんかで知った方も多いのではないでしょうか。
↓百聞は一見にしかずなので、是非♪
俺もアカペラは未経験だったのですが、今ではすっかりひとつの歌を何人かで合わせて歌うことが楽しくなってしまいました。
サークルに入りたての時期はランダムに先輩とバンドを組まされる、いわゆるスタートバンド、通称「スタバン」を経験して、その後は自由に好きな人とバンドを組んでイベントに出られるよう練習しよう、というものでした。
残念ながらスタバンで音取りの難しさに直面してしまい、現在のバンドではボイパを担当しています。
うちのサークルは今の三年生が作ったかなり新しいサークルで、特に今年入った一年生が異常に多いという状態でその分バンドも乱立していました。
バンドの数が多い分、当然イベントに出演できるバンドの数は限られています。
今回の学祭では、25バンドもエントリーし、そこから15バンドに絞るというなかなか厳しいオーディションでした。
さて、ここまで話してようやくタイトル回収ですね。
そのオーディションには落選してしまいました。
それに向けて頑張っていたところはあるので、やはりどこか気が抜けてしまったところはあります。
個人的にはそれなりに楽しくやれていたので、万が一15位に滑り込めるのでは…?なんて微かに期待もしたのですが、甘くはありませんでした。
わー音楽って大変だ〜
中高で軽音なり合唱なり吹奏楽なりを経験していないので、俺にとっては友達と音楽をやるというのが始めての経験です。
アカペラに入ったのも単純に歌うのが好きだから、という単純なもの。
うーーん、舐めてた
というのは実はスタバンで苦労している時にも感じたことなのですが…改めて
今回のオーディションは音源審査だったので、実際に歌ったのを録音し、その音源を提出するといった形でした。
なんか録ってるときは妙に上手くいっている、まではいかなくとも「それなりのものができあがった」という感覚になってしまっていたのです。
エントリーしたバンドの音源はサークル全員に公開されていたのですが、それを聞いても「なんとか滑り込みで…いけないかな…?」みたいな感覚でした。
落ち込んでるわけじゃないです。
「いやぁ、それは強がりでしょ」って言われそうですが、自分の感覚として、「落ち込む」という心理状態とは違った感じがするんです。
なんて言うんでしょう、この感じ。
「やれるだけやった」というのともちょっと違うような、でも「ちきしょーー、あんなに練習したのに…」とも違う。
中には今回のオーディションで落ちたことでメンバーの団結が崩れてしまったようなバンドもあるようで、俺のバンドは「仲の良さ」だけは自慢できるバンドだったのでそこは安泰でしたが、それでもそういう話を聞くと「バンドって大変なんだぁ、うわぁ」って感じになります。
サークルでは複数のバンドの所属している人の方が多いのですが、俺は今のバンドしかないので「もし自分のバンドが…」なんて想像すると居場所がなくなる恐怖に震えます。
いやはや人間関係恐ろしい。
音楽って厳しい。
実力があっても人間関係が崩れるとバンドは続かない。
そんな当たり前の、でも俺が知る機会のなかった事実をつきつけられた一昨日でした。
とはいえ、さっそく反省会もすませた我がバンドはメンバー全員やる気十分、リベンジの気概十分です。
今思えば、こんな青春らしいことができる出会いに恵まれたことに感謝しかない。
大学生って…楽しいなぁ…
おしまい。