メープルたいむ

メープルもみじがお送りする、Webと社会とサブカルといろいろな雑記。エモい×情報量。

「誰でもいいから付き合いたい」の真意

最近、考えることはやたら多かったわりに、ブログがなかなか書けなかった。
 
 
テーマはいくらでもあるのに、書いているうちに自分の言いたいことがますますわからなくなってくるんだ。結論が出ない気持ち悪さだけが残って、吐き気がする。
 
 
とりあえず、まとまらないけど、最近考えてたことを吐き出してみる。今回モヤモヤしてたのは、色恋のことについての悩み。
 
 
ぶっちゃけると最近どころの騒ぎじゃなく、ほぼ日常的にドロドロと闇をツイッターで吐いているのだが、特にここ数日がひどかった。
 
もう細かい経緯は忘れたが、自分の恋愛経験みたいなのを思い返している最中、少し因縁のあった知り合いに「君ってほんとに相手のこと好きじゃないよね、自己中心的なクソ野郎だね」って指摘され、それが何かの引き金を引いた。
 
 
激しく動揺した。
 
もっとも、浪人期間から現在に至る一年の間に彼女を3人も作っては、全て自分から別れを切り出すという経歴を暴露しては、そういう印象を与えてしまうのも無理もなかったのかもしれない。
 
 
ただ、そういった出来事も自分の中では「それなりに楽しかった思い出」として結晶化して昇華したつもりでいたところに、「好きですらなかったのでは」という指摘は、結晶にヒビをいれ人格がパズルのように壊されたような感覚だった。
 
「それはありえない」と断言できる自信があればよかったものを、「そうかもしれない」と思い当たってしまった自分がいて、それに揺れた。
 
 
揺れた理由はそれだけではない。
 
 
以前言い訳するかのように記事でも書いたが、俺が経験した恋愛が全てネットを介したものであったという事実。それに対する世間一般のマイナスイメージ。

 

 

 
それに夢中でそれ以外の全てを投げ出そうとした過去の自分。
 
それをあえてこのブログなどで暴露することで身を保とうとしてる自分自身。
 
それを友人に話したときに指摘されて、まだ頭から離れない「それって二次元に恋愛してるみたい」という一言。
 
たびたび溢れ出す自分の闇ツイート。
 
「依存したい」というどこか禍々しい欲求。
 

 

 

 
 
そういう何もかもの事象が結びついて、何か自分がとてつもなく醜い存在なのでは、という意識がのしかかってきた。
 
とても重苦しくて、とても無気力で、吐き気を感じた。
 
 
 
先日、久々に悪夢を見た。
 
重い荷物を持って歩いていて、前に進もうとしているのだがあまりの重さに体が数センチしか動かせない。むしろ体そのものが重いような感覚で、とにかく押し潰されそうなのだ。
 
目が覚めてもその重い感覚は肩に残っていて、何かの暗示のようで、恐ろしかった。
 
 
 
またくだらない思考をめぐらせ、記憶をたどった。
 
 
 
そして、冷静になった。
 
人間というのは、肉体ばかりでなく心も自然治癒力を備えているのが実にありがたい。
 
 
 
 
最初は「好き」という感情を疑った。
 
単純に心の拠り所を求め、依存できる相手を求め、それに縋っただけだったのではなかったのかと。
 
 
…確かにそういう側面もあった。けれどやっぱりそれだけではない。
 
 
そもそも「好き」という感情をどのようなものか、と解剖しようとするのは不可能に近いことだった。おそらくその感覚は実際に体験してみないとわからないし、人によっても違うし、そうなったとしても他の言葉では表現することは難しい。そしてその感情自体が関係を深めていく中で変質しうる。
 
何が言いたいかというと、「好きは確かに存在した」ということだ。
 
 
別に疑う必要なんてなかった。その事実は、どんなきっかけで始まろうと、どんな終わり方であろうと変わらない。
 
 
そう思うことにした。だからそういうことなのだ。
 
 
 
誤解を生まないように補足しておくと、俺に「好きは存在しなかったのでは」と指摘したその知り合いに悪意はない。 普段のツイッターでの荒れ模様、情緒不安定で思わずこぼした元カノをまだ引きずっているという主旨の愚痴、そして詳しい過程を説明していないという事実の上で出た言葉だ。動揺はすれど、その鋭い指摘は結果的にはありがたかった。
 
 
 
 
以前、とある友人に言われたことがあった。
 
「どうして『好きがわからない』なんて、そんな面倒なことを考えるんだ。『好き』は『好き』でいいじゃないか」と。
  
全く彼の言うとおりだった。
 
 
様々な思考をぐるりと回ったあげく、結局たどり着いた結論はそこだった。
 
 
 
 
 
昨日、少し考えてたことがある。
 

 

 
 
俺は、幾度と無く、ある一定の条件を満たせば「誰でもいい」という表現を用いてきた。
 
それはとても不誠実な印象を与える言葉だ。
 
 
「誰でもいいから付き合いたい」と言えば、それは単に「彼女という飾りを持った自分に憧れている」や「性欲を解消できる相手が欲しい」といったニュアンスに捉えられてしまう。
 
 
自分でも一度「そうかもしれない」と認めかけたが、それは誤解だ。
 
 
俺は他人に興味があって仕方ないタイプの人間だ。
 
ゆえに人と言葉を交わすのが楽しくてしょうがない。会話をして、相手のことが知れれば知れるほど楽しくなる。
 
 
「好き」という感情は解剖不可能、とさきほど断言したが、しかしそれが生じうる状況というのは定義することができる。恋愛のハウツー本などでレクチャーされるのはまさにそこへ至る手段だろう。
 
つまり、「好き」という感情はある程度の相手への興味が下地に生じうるものなんだ。
 
 
個人的な感覚としては、「興味がある」→「一緒にいて楽しい」→「もっと一緒にいたい」→「好き」のようなフローチャートが思い浮かぶのだが、この「一緒にいて楽しい」の感覚はとても簡単に得られるものな気がするのだ。
 
 
そして多くの人に興味を持ってしまう俺は、「きっと一緒にいたら楽しいのだろう」と思えてしまう対象者が多い。持って生まれた性格からなのか、俺は人の魅力をすぐに見出してしまう。要はチョロいのだ。
 
 
それはもう一段階踏まなければ「好き」とはならない感覚なのだろうが、相手も同じ感覚を共有していたのなら、そこからステップアップしていくのにさほど苦労するとも思えない。
 
そういう意味での「誰でもいい」なのだ。
 
 
彼女がいるという状態への憧れ、性的な欲求、依存して心の支えとしたいという願い、全てある。
 
しかしそれが核ではない。
 
「同じ時間と空間を共有するのが楽しい」かどうか。それが俺の中での「好き」という感情の核だ。
 
 
仮に万が一、今までがそうでなかったというのなら、これからそういうことにする。そう決めた。
 
 
 
もう一つ決めたことがある。
 
あまり獣のように飢えるのはやめることにした。その姿はあまりに惨めだ。
 
今までそれを自覚しながらも「吐き出さなければ身がもたない」という思い込みに囚われ、「惨めな自分こそが自分」と盲信していた。
 
しかしそれも自分の意思次第で、どうにもできるものだった。惨めであることを決めたのは自分自身だった。
 
 
 
「押してダメなら引いてみな」といったところだろうか。
 
 
一度自分の欲求から距離を置くことにしてみる。欲望に自ら沈むのではなく、それを見つめなおし、慎ましく秘めようと思う。
 
 
今まで散々ぶちまけてきたので手遅れな感も否めないが、それでも自分のために、そういう心のあり方に変えていった方がいい気がしたのだ。
 
 
 
 
 
 
おしまい。