もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

心が狭い生き物

人はみんな心が狭いと思う。

自称心が広い人も、狭い人に「うわーなんでそんな心狭いのーありえないー」と嫌悪を抱くぐらいには心が狭い。

みんなみんな心が狭い。



僕も心が狭い。

おまけにプライドも高い。意地っ張りでもある。



自分の意見を否定されるとムッとする。

偉そうに話してる人を見ると、実際に偉い人でもいらっとする。

自分よりもレベルの低い人を見るだけで、「そんなこともわからないのか」とピリピリする。


馬鹿な人が馬鹿をしてるのを見るだけで悪態をつきたくなる。


アドバイスした内容を突っぱねられるだけで、頭にモヤがかかったみたいになる。

自分の思い描いた通りに動かない人に、腹をたててしまう。





そんなことに、動揺しても無駄なのは理解している。自分が世界の中心になったつもりでもいるのか、と言われるだろう。

でも、これは僕の物語なのだ。僕が主人公なのだ。
僕の物語では、ずっと僕が中心にいるように話が進んでしまうんだ。

しょうがないじゃないか。

わがままでも、心が狭くても、周りを許せなくても




そうやって自分を肯定しちゃう自分が心底嫌だ。はやくこんな僕を殺してくれ、痛い目に合わせてくれ

自信をあえて持たないようにしている

もともと自信過剰な性格だ。

負けず嫌いで、プライドが高くて、自分が一番でいたい人間だ。

人に勝っているという状態ほど、優越感に浸れるものはない。


みんなはどうなのかな。

周りがどんなに凄くても、自分だけがビリッ欠でも、気にしないのかな。


まぁ僕も負けても何も感じないジャンルは確かにある。

けど、自分が下にいるという感覚はどうにも屈辱的で、どうにか上にいたいと思ってしまう。




人間関係を縦軸で捉えているんだ。

だってそうだろう。

優れている人は確かにいて、ポンコツも確かにいて、どっちつかずな自分がいて。

みんな得手不得手はある、同じ水平線を歩いているんだって言ったって、やっぱり前か後ろか、優劣は確かにそこにある。





そうどうしても思ってしまう僕は、自信なんて持たない。

自信を持ってしまったら終わりだと思っている。



いや、すでに自信過剰な節があるぐらいだから、慎重に控えめに、自分を押さえつけてちょうどよいレベルだ。
得意気になる自分に言い聞かせる「調子に乗るな、お前より上はいくらでもいる」。

おかげで自己効力感なんて全然持てない。


自分を疑い続けないと、自信が自信として強固なものになってしまったら、ただの融通のきかないクソリプおじさんだ。
「昔はよかった」とぼやき続ける年寄りと一緒だ。
そうなりたくない。嫌われたくない。


でも好かれたい。誰かに憧れられたい。ちやほやされたい。人の言葉に翻弄されたくない。しっかりした意見の筋の通った立ち位置にいたい。もっと自信を持ちたい。自分を疑わずに楽に行きたい。


暗い子アピールして、哀れんで欲しいだけなのかもしれない。あーなんて浅ましいんだ、自分は。



2つの意思がぐちゃぐちゃ混ざって、目指す人間性もちぐはぐで、前にも後ろにもいけない。

ゲームを恋人と共有するのは難しい

僕はライトではあるが、splatoonやモンハンなどを嗜むゲーマーである。

今回のテーマは、ゲームを恋人と共有するのは難しいの巻である。


そもそもとして、テレビゲームは男子の嗜みであって、たぶん世間一般には女子でゲームに興じる人は少数派だ。
なので、僕の場合、その少数派な方とお付き合いできているのがまず幸運なことだ。
かつてゲームへの理解を得られず関係性をこじらせた僕としては、そこへの感謝は忘れてはいけない。

が、しかし。
それはそれとして問題は起こる。
同じゲームをプレイしていると、進捗や技術に差が生まれ、それにより劣等感やコンプレックスを刺激されスランプに陥ってしまうのだ。

当人含め、勘違いしないで欲しいのだが、これは決して特定の個人だから起こる問題ではない。
少なくとも僕自身、ゲームの技術で劣るのを実感する機会は多々あったし、実際に劣等感を感じ苦手意識を植え付けられた記憶がある。
よってこの問題提起は、スランプに陥る当人の精神的脆弱性を批判しているつもりもないし、ましてや関係性を嘆いているわけでもない。あくまで前向きに、「どうにかしたい」という意思に基づいてるのを理解して欲しい。

ゲームの強さは先天的かも

ゲームは緊張感や刺激性の高い娯楽ではあるが、反射神経のような先天的な運動能力を必要とするジャンルも多い。
運動能力が低く、幼い頃から損ばかりしてきた僕は、その"先天的などうしようもなさ"を知っている。ぶっちゃけ運動能力がモロに反映されるスポーツ系ゲーム、スマブラなどは苦手意識が強い。
楽しいんだけど。負け続けるとやっぱり辛い。

つまり何が言いたいかって、努力や経験でどうにかなる強さも限界があるんじゃないかって話。
かくいう僕も運動苦手なのでゲームを弱い方だと自覚しています、謙遜じゃなくて、マジで。

弱い人はどうやったって弱いし、その逆も然りなんじゃないかと。
後天的にどうにかできるのはRPGとかかな?

ゲームは娯楽であって闘争である

体が闘争をもとめる、的な。

前言撤回というわけではないのだけど、ゲームは娯楽といえど"楽"ではなく努力が必要だ。
先天的にどうにかならない部分ももちろんだが、後天的に伸びがゼロかというと、そんなことはない。

結局強い人は、まずプレイ時間が違う、熱意が違う、忍耐力が違う。

それは心構えの問題だと思う。
娯楽といえど弱肉強食。強くありたければ、心構えは必要だと思う。
ゲームに限った話ではなく、趣味全般、クオリティを追求すると闘争の身を投じることなるよね。

エンジョイ勢の心

"エンジョイ勢"という言葉は、弱くても楽しみたいというライトゲーマー達の願いが詰まっている。

ただ悲しいかな、エンジョイ勢といえど、勝ち負けはあるし、成功失敗はある。
負ければ悔しい。負け続ければ辛くなる。
結局、心はみんなガチ勢なのだ。

真にエンジョイ勢の心があるとするならば、そういった勝ち負け白黒の価値観とは離れたものだろうが、それはもはやゲームというシステムを楽しめているかさえ怪しい。


ゲームを繋がりに

話がゲームという仕組み自体に逸れたが、一般的に我々はゲームの進捗や技術の差について苦悩することは少ない。

「あぁそうか、自分は下手なんだ」と認識し、触れなければいいだけの話だからである。
所詮、娯楽。触る義務も必要性もないのだ。

しかし、それを人間関係の橋として用いていると、話は別だ。
意思に反して、触る必要性に迫られてしまうのだ。


強引な解決法は、「ゲームを繋がりとして用いない」というものだ。確かに、そもそも共有を諦めてしまえば、その差で息苦しい思いをすることはない。
しかし、共有できるものを持っておきながら、それをあえて避けるというのも、僕には苦痛だ。

解決策募集

そして結論は出ていない。

要するに「楽しく一緒にゲームがしたい」だけなのだが。

晴れのち時々どろどろ

時折、どろどろする。心の内側が。

以前ほどネガティブじゃないし、何かを渇望してもいないけれど、「まだ満たされていない」と暴れだす感情が内側にある。

自分の思い通りにならないことに、イライラする。

それがどうしようもないことでも、悪意がないことでも、些細なことでも。

自分と近くも遠くもない人のことが、無性に気に障る。

偉そうにするな。そんなのは俺にとってはちっぽけな、取るに足らないものなのに、なんでそこまで偉そうにする。気付けよ。俺はそれを聞かされてるのが不快なんだよ。

こうして悪態をつかなきゃ気がすまない自分自身も不快だ。

不安になる

自分の進む道を決めた。でも、怖い。真っ暗闇が「ここから先は茨の道だ」と僕にささやく。

同じ道に、横に歩いている人はいない。はるか後ろに、道に入ろうか決めあぐねている 人が少し見える。はるか先の光の中に、堂々とあるく背中がたくさん見える。僕の横には誰もいない。

ときおり寂しくなって、誰かと言葉を交わしたくなる。そんなとき、ふと自身に関わる話題をはなしている人がいれば、勇んで声をかけにいく。でも、そんな自分はひどく不器用で不格好で、下手したら突然現れた変質者に見えるかもしれない。 迷惑をかけてしまうのかもしれない。こわい。不審な目を向けられるのが。 めんどくさそうにあしらわれるかもしらない。

ふと道を歩いていると、人の目を追ってしまう。こわい。目が合った一瞬、何を思われたか。笑い 声がどこからか聞こえてくる。まさか自分の悪口じゃあるまいな、そう体が怖ばる。

声だけで、相棒の感情が読み取れない。悲しいのか、怒っているのか、ぶっきらぼうなのか、何か別のことで気が逸れているのか、眠たいのか。顔を見ないと、言葉を引き出さないとわからない。こわい。 見逃している感情はないか、言葉はないか、不安だ。

不安だ。寂しい。こわい。どろどろ。

おやすみなさい。明日起きればまた晴れる