もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

ネットで発言することが惨めに思った

ひどい話をします。

ときどき、ブログを書こうと、頑張って何時間も時間を費やしている自分が惨めに思えます。

他人のブログを見て、「わざわざこんなこと、書くほどのことでもないじゃないか」と、見下したような気持ちになることがあります。


ブログだけじゃない。

Twitterで発信している自分もときどき惨めに思える。

他人もそう。

闇を垂れ流すひとは哀れに見えるし、深い長文ツイートしちゃう人は暇なんだなって思うし、Twitterだけのキャラを作り上げてネタに走ってる人達もどこかエネルギーの使いどころおかしいなって思う。

ネットという媒体を使って何かを表現すること、発言すること、全てが惨めに思える。空虚に聞こえる。


どこか俯瞰した視点から自分を見ると、何もない場所から何かを掘り出そうと必死になっている自分がいる。そんな自分が滑稽で醜くて、苛立ちを覚える。

自分と似ていれば似ているほど、他者のそういった発言にも苛立ちを覚える。


こんなことを書いて何になる。何の力がある。何の価値がある。続けて何になる。どこに需要がある。

わからない。

わからないけど、何かを生産していれば、何もやっていない自分よりはきっとまともに見える。そんなことを思って、薄い言葉ばかり並べて、受け売りの知識ばかりひけらかして。


いわゆるマネタイズをしていれば、それがモチベーションになるのかもしれない。広告収入さまさまで。

でもそれは何かが決定的に違う。

お金のために、本当に目先の利益のためだけに、人の目につくためだけに作ったものには、きっと何かが決定的に欠けている気がしてならない。

最も、めんどくささで嫌煙しているだけの俺が何か意見できた立場ではないのだけれど。



最近読んだある小説に、こんなことが書いてあった。

「今の自分がいかにダサくてカッコ悪いかなんて知ってる。」

「ダサくてカッコ悪い今の自分の姿で、これでもかってくらいに悪あがきするしかないんだよ、もう」


悪あがき、なんだと思う。

多くの人にとって、ブログは悪あがきだと思う。

SNSでの発言も、掲示板への書き込みも、動画のコメント欄も。あらゆるネットでの発信は悪あがきだと思う。


ネットだけじゃないかもしれない。現実での発言も、掲げる目標も、日々の暮らしもぜんぶ悪あがきかもしれない。


自分のダサさも、作り上げたものの中身の薄さも、ぜんぶぜんぶわかってて、それでも発信し続ける。


意味があるか?と問われれば、きっと何の意味もない。

だけど、何かを発信し続けることで、自分の存在を確かなものにしたいんだと思う。自分の居場所を作りたいんだと思う。


それで、いいと思う。

非効率でも無価値でも、遠回りでも。

深く考える必要なんてない。

自分のやりたいように、言いたいように立ち振る舞えばいい。あがき続ければいい。

何が残せるかなんて、何が生まれるかなんて、蓄積されるかなんて、誰にもきっと見えていない。見えたふりをして無理やりあがいているだけだ。そうに違いない。



惨めだ。

たぶんこの世に生きる全ての「生」は惨めだ。そもそも生きることが惨めなのかもしれない。

きっと自分だけじゃない。一部の人間だけじゃない。みんなみんな惨めで、惨めさと戦い続けている。



みんなが惨めなら、自分は一人ぼっちじゃない。そうあってほしい。

惨めでいいじゃないか。

惨めが惨めをひきつけて、くっついて、もっと惨めになったっていいじゃないか。

それが生きるということなら、精一杯生きてていいじゃないか。



なんつって、こんな風に綺麗事っぽく、美しく割り切れたら、素敵だと思う。

バカボンのお父さんみたいに、「これでいいのだ!」とゲラゲラ笑って、一日一日を過ごしていければ、そんな素敵なことはない。


バカボンのパパの名言に見る幸せの在り方②。 – オモシロ美人のすすめ



でもきっと綺麗に丸く収まらないのが、世の中というものだと思う。人の心というものだと思う。


一度立ち上がっても、結局またすぐ転んじゃう。

惨めに生き永らえながら、そんな惨めに耐えられず苦しみ抜く生き物だろう。

迷路から抜け出しても、すぐに迷路に自ら迷い込んでしまうドジな生き物だろう。


でもなんだかんだ、惨めなまま、生きていくんだろう。


俺もこうして迷いつつ、でも、きっと発信することをやめられそうにない。