読まれるブログ、見られる動画
僕は1年前からYouTubeをやっている。
ひょんな事からゲーム実況にハマり、ひょんな事から自分もできるんじゃないかと思い込み、ひょんな事から続いてしまってここまで来た。
でも実際、数字は伸び悩んでいる。
当たり前と言えば当たり前で、自分のやりたいと思ったことを自分のやりたいように無秩序にやって来ただけで、「見られる動画」を意識して作ってこなかった。
それはこのブログと同じだ。
厳密に言うならば、見られることを意識する瞬間はあるが、それを第一としないよう意図的に立ち回ってきた。
なぜかと考えてみると、おそらく僕は、「見られるを第一とした時、僕の産み出すコンテンツは心を失うに違いない」と思い込んでいたのだと思う。
「コンテンツが心を失う」
わかりそうでわかりにくい表現。
僕自身もこの感覚を文字に起こすのは難儀する。
もしかしたら、僕と近い何かを持って物作りをする人なら、共感してくれるかもしれない。
共感してくれたら、ぜひこの感覚をよりよい言葉で言語化してくれるとありがたい。
まぁ、ともかく。
僕がここで今まで書いてきたブログと同じように、僕の作る動画たちは届くべき人に届いていないのが現状だ。
数字に執着し始めると、まず数字=価値という考えに囚われるが、今の僕にはそこは違うと断言できる。
数字は確かに客観的だが万能な指標ではなく、ある一定の条件、場所において、そこの通行人数を示すだけのものだ。
例えるなら、絵画展があったとして、絵画展を開催している建物の入口を通った通行人をただ集計していて、それが絵画展の価値とイコールだと主張する、みたいなものだと思う。
何が言いたいかと言うと、僕のコンテンツの価値は全て数値に現れてはいなくて、それは相応の努力で埋められる差分で、つまり届くべき人に届いていないということだ。
僕の課題は、コンテンツ力ではなく、ずっと集客力のなさ。
そう気付いてきた。
まだうまく全てを文字に起こせないけど、
感情とロジックのバランスを上手くとりもって、僕は今、見られる動画を頑張ろうと決意している。
随分前からそうすべき、そうしたいと思っていたけれど、ようやくできそうだ。
あるいは前から試みてはすぐに折れていた心が、しなやかになって来たのかもしれない。
結局何が言いたかったのか、
よくわからなくなってきたが、僕の心は今晴れやかだ。
ここはあまり読まれるためのブログではないけれど、動画の僕は、見られるための僕になろうと思う。
そう決めたら、あとは一つ一つやるだけだ。