文字にする心理的負担
前の記事のはなし
わざわざ記事を取り下げるほどのことではないのだけど、いちおう報告。
いじわるされた、のは勘違いでした。
友人と仲違いした興奮が残っているさなかに、冷やかしのような匿名のメッセージが来て、今思うとなんで断定したかわからないけど、そこに悪意を感じてしまった。
ごめんなさい。
確かに冷静になれば、
ちょっとしたいじりというか、スパイスのきいたメッセージみたいなものだった。
当の友人と直接話す機会があって、聞いてみたらあっさり解決した。
なので、大丈夫です。
本題
実は最近、裏で、日記を書いている。
ここには書けない個人情報やら会社の守秘義務やら、生々しい感情やら。そういうのを一切のフィルターなしにただ記録として、書いている。
できれば毎日続けて、後で読み返してエモくなったりしたいのだけど、まぁそう習慣化もできず、ぼちぼちやっている。
またそれとは別の話で、最近ラジオをやっている。
いや、ラジオ自体は大学時代からかじったりやめたり、いろいろしてはいる。
ただ今回のは自分的に真面目にやっている。どうしたって独りよがりだけど、出来るだけ独りよがりにならないように、人の耳に届ける意識でやっている。
で。
ラジオといえば「おたより」っていう枕詞というか、ポケモンでいうモンスターボールみたいな立ち位置のコンテンツがあるのだけど。
まぁ、来ない。
冷静になるまでもなくわかる。
芸能人でもなんでもない、特徴もこれといってない一般男性25歳に、わざわざ文字をしたためてくれる聴衆なんて、まずいない。そもそも聴衆がいない。
ただ今日は、「どうしたら無名な一般男性が有名になれるか」ではなく、「文字にする心理的負担ってパないよね」って話をしたい。
そう、文字にするのは疲れる。
日記の話に戻るけれど、人々が日記をなかなか継続できないのは、文字にすることに疲れてしまうからだと僕は思う。
各々の適性とか、文章力の有無とか、そんなのに左右される以前の問題として、脳内の思考を文字情報に落とし込むのは難易度がとても高い。
「おたより」もそう。
僕のラジオで来ている「おたより」は、今のところ、心優しい知り合いや友人からの恩情の文だけである。
逆に言えば、見ず知らずの誰かが唐突に「あなたのラジオ、素敵ですね!」とか「共感しますよ!」とか一言だけでももらえることはまずない。
何故かといえば、見ず知らずの僕のために、そんな心理的負担を乗り越えて文章をしたためるエネルギーがどこにもないからだ。
それは自分が、知り合いのラジオを聴く立場になってすぐ理解できた。
ゲーム実況活動を始めて多くの知り合いを増やした僕だが、その知り合いで何人かは僕と同じような規模感のラジオ活動もしている。
ただ、それも玉石混交、というか、ラジオスタイルは千差万別で、最後まで聴き通すのだけでも正直苦痛なものもある。
難なく聴けると感じるものでも、毎回欠かさず聴くほど熱中はしないし、ましてや「おたより」など、滅多に自分のエネルギーを割けるものではない。
多くのラジオを試聴して感じたのは、一般的なラジオのおける「おたより」とは、まさに一通の紙の手紙のようなボリュームで、何度も読み返して練りに練られたような愛のこもった文章であるということだ。
それを自分の視聴者に必須で求めるわけではもちろんないが、「おたより」というコンテンツはそうした、リスナーとパーソナリティを深く結びつけるような、ラジオという媒体を通して、文通しているような重厚なコンテンツなのだと気付いた。
当然、そんな深い関係性は、見ず知らずの人とは築きにくい。付き合いが少ない知り合いでもそうだ。
いきなり長文を送れば、不審がられるリスク、誤解されるリスクなどが常につきまとう。それらを背負ってでも話しかけたい出会いなんて、人生で数えられるほどしかないだろう。
ブログだってそうだ。
共感したり、素敵だと思ったブログ、記事にコメントをするには相当の勇気と覚悟、エネルギーがいる。
僕だって一人の読者として、まだ片手の指で足りるほどしか経験がない。
だから、はてなブログのスター機能は好きだ。
気軽にその人に応援の気持ちを伝えられる。うまく言葉にはできないけど、とりあえず小さな肯定・同意・共感・存在を伝えられる。
今日も巡回して、ぽちぽちとしてきたところだ。
僕にはあたなにかける言葉を紡ぎ出せる力と勇気がないけれど、「今日も読んでいるよ。」「応援しているよ。」
着地点を決めずに飛び立ってしまって、変な空路で旋回しているけれど。
文字って、文章って、しんどいよね。書くのも、読むのも。
それを伝えたかった。
そういえば以前に似たようなことを記事に書いた気もする。
きっと今の僕よりはブロガーな僕だから、そっちのがスマートな文章だったりして。