もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

いじめは災害みたいなものかもしれない

ふと、新聞を読んだ。学校の図書室で。

んで、新聞の頭に「いじめ」という3文字が見えて、つい食い入るように読みふけって、言いたいことがもにゅもにゅーとなった。


いじめ認知 過去最多 昨年度県内公立学校:朝日新聞デジタル

インターネット使ったいじめ 1万2000件超で過去最多 | NHKニュース


もにゅもにゅー!

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なんだかわからないけど、いじめの認知数が過去再高なんだとか。

ふむ。


そもそもさ、いじめを数で捉えることに意味なんてあるのだろうか。

いや、まぁ統計として、数えるのは大事なのかもなんだけどさ、いじめってなんか雲みたいなものというか、どこからがいじめってわからないじゃない?
よく「いじめは被害者がそう感じたらいじめだー」ってあるけど、本当にそんなのいちいち報告してたら1万どころじゃ済まない気がする。
からかいだって、ふざけ合いだって、いじりだって、いじめになる可能性は十分にあるわけで。
でもそういったものは、確かに被害者から見れば加害行為だけど、得てして子供時代の通過儀礼というか、必然的スキンシップというか、そういう性質を持っている。そういうやり取りがまったくない学校生活を想像すると、それはそれで不気味だ。


俺も、いじめという災害に巻き込まれたことはそこそこあるけど、なんというか、本当に人に相談しないとどうしようもならないものと、一種のコミュニケーション、スキンシップ的な側面を持つものとあって、後者に関しては問題として取り上げてもさほど得るものはなく、むしろ溝が深まることもありうる。

いや、あるいは加害側の感覚としては、全てスキンシップ的な感覚だったのかもしれない。


昔は、誰かに傷つけられた、侵害された、そのことへのショックがあって、それを訴えることが正解なのだと思っていた。

でも今思うと、冷静に相手の意図を汲み取れば、別段傷つくこともなかったのかもしれない。



いじめという現象は、要するにすれ違いなんじゃないかな。

何かをさせたい人と、何かをしたくない人、それがこすれて、ぶつかって、先に武器を構えたほうが悪になる。


無論、言葉だろうと、拳だろうと、武力に訴えるのは短絡的だしリスクが大きすぎる。
そこでブレーキを踏めない人、あえてアクセル踏み込んじゃう人は、素直に軽蔑してるよ。もちろん。

でもそれはほとんどの人が成長につれて、そこそこ丸くなって、アクセルブレーキの扱いはまともになるのよ。
実際、大学生になってから危なっかしい運転する人にはあんまり会わない。おかげで平和だ。

つまり何が言いたいかって、いじめってのは幼さ故のトラブルなのよね。まぁ当たり前なんだけど。



かくいう俺も、つい1年前かそこらは、「いじめっ子に限って人生楽しそうやんけ!許せへん!!」とか思ってた。

「俺はどんだけ経っても傷つけられた事実は忘れないからな!許してやってるけど、忘れないからな!」とか謎のマウントとってた。


ただふと冷静になると、加害者も、被害者も、幼かっただけなのかもしれない。
幼いからすぐ手がでるし、幼いからすぐふさぎ込むし、幼いから引きずるし、幼いから世界の広さに気付けない。


勘違いしないで欲しいのだけど、不登校になってしまう子、あるいはそれ以上の選択をしてしまう子たちをdisってるわけじゃないよ。
自分もそうなったし、わかる。
当時の自分のとっては、本当にそれしか道がなかったし、それが真実だった。

その時点でそうなってしまったのは仕方ないし、その選択もその時の精一杯なわけだし、間違いじゃない。逃げることでしか意思表示できない場面だってある。
その選択を卑下したりはしない。一瞬の決意を、尊重したい。



ただいろいろ通り過ぎていった今言えることがある。

いじめって、幼さから必然的に起こる、災害みたいなものだったかもしれないって。

いわば青春の嵐
誰を攻めてもどうしようもない類の、災い。

災いだから、傷つく人もいる。命を落とす人も。



「いや、そんなことない、いじめっ子が悪い。あいつらのせいで俺は、」とか思う人もいるかもしれない。

確かに加害者はいる。
俺も、世間にはいじめっ子出身者と、いじめられっ子出身者しかいないって思ってた。被害者でいるのは楽だし、復讐感覚で好きに物言える感じは心地よかったさ。
憎まれっ子世にはばかって、正直者ほど損をする。そう単純に世界を嘆いていたかったさ。


でもそう単純じゃないんだ。

世の中はもっと複雑で、いろんな人の"したい"と"したくない"がグチャグチャに絡み合って、幸福も不幸も、雑にふった塩コショウみたいに不均等にばらまかれていく。
しょっぱいも辛さも、酸いも甘いも、混沌でランダムで不公平だ。

そんなグチャグチャな世界で、誰が悪いかなんてはっきり決められない。加害者だって誰かの被害者で、誰かの奴隷で、その加害者だってわからない。
仮に誰かを「悪者だ!」と決めて貶めたとして、それで自分が幸せになれるとは限らない。復讐したって、傷を負った事実は消えない。どんなに色を重ね塗りしたって、固まった絵の具は剥がせない。

そんなわけがわからない世界で、空気で、空間で、僕らは呼吸をして歩かなきゃいけない。


なんだかこうして世界の広さを感じていると、いじめという問題を考えるのがちっぽけに見えてこない?

世界は広いぞでっかいぞう。北海道もでっかいどう。


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もちろん、いじめって現象を「ありきたりだ」と軽く容認する社会であってほしくない。災害だから、援助もすべきだ。悼むべきだ。


でも、いじめに敏感すぎる社会も、あんまりいいこととは言えないかもしれない。

なんだか最近の社会は、みんなが悪者探し悪者叩きに躍起になってる感じだ。



悪者を痛めつけることよりも、優しくしようよ。眼の前の人に、自分に、言葉に。
僕らは戦う以外の手段をたくさん持ってるはずじゃないか。



What’s going on?
僕らはもう生き抜いてやろうよ。

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