もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

就活へのモヤモヤ

勢いに任せた感情的な記事です。

偏見を多いに含みます。

今の就活はどこかおかしい

言いたいことの中心はまずコレ。

就活というものが、新卒採用というものが生まれてからこうなのか、あるいは最近変容したのか、わからないけれど。少なくとも、今の就活はどこかおかしい。

逆に、おかしいと思わない人はおかしいし、おかしいとわかっても諦めて流される人はもっとおかしい。

だから、もし今後僕がそういう風になったら。つまり「おかしい」と言いつつも結局流されてしまったとしたら、その時はこの記事を突きつけて笑って欲しい。ほら、こんな生意気なこと言ってたお前も結局つまらない人間になっちまってるじゃないか、ざまぁ見ろと。



就活が、茶番だなんてのはわかってる。この茶番に付き合えるかどうかを見られていることも、今の社会でどうにか公平性を保ったまま学生を見ようとしてくれていることも。


大学教授である父は言う。

就活になると、今まで遊んでいた生徒もピシッとする。礼儀作法がちゃんとできるようになる。


また先日見た人事の裏事情をインタビューしたYouTubeの番組で、人事担当者は言う。

体育会系の生徒は狙って取りに行っている。熱意があって、集団生活に慣れている。


なんだそりゃ、と思ってしまった。

それは確かに、間違ってはいない、厳然たる事実だとは思う。

でもそれは最底辺の相対的評価であり、例えるなら、「昔ワルだったけど更生して立派に働いています」みたいな、そんな感じ。プラスの評価じゃなくて、マイナスな評価が0になったから、そのプラスの変化量が評価されている。

どう考えたって、最初から0とかプラスだった人の方が偉い。真面目な人ではなく、不真面目だったけどその一瞬最大瞬間風速を出せた人が有利になっているじゃないか。

体育会系もそう。

いや、もちろん、真面目に取り組んでいる人はいるだろうし、尊敬に値するアスリートの卵もいるだろう。

ただ少なくとも、僕が実際に触れ合って来た体育会系と言われる人たちに、真面目と形容できそうな人達はいなかった。当然、偏見だし、体育が苦手だった僕には僻みもあるだろう。

健全な精神は健全な肉体に宿る、とも言うが、しかし、体育会系であるというだけどそれが価値を持つのは納得できない。それなら文系だから、理系だから、というので価値を持ってもいいはずだ。

今の体育会系の価値は、相対的に、そうでない学生があまりにもだらしないから、そう評価されているだけにすぎないのではないのか。



いや、そもそもだ。

就活で求められる人物像というのが、酷く偏った、一部の人が得をできるようになっている。

自分が馴染めないから僻んでいると捉えてくれて構わない。だけど、いくら社会が短い期間と情報で人を見なければいけないからと言って、そこで「向いていない」だけで損を被る人がいるのはおかしい。

企業は誰でも採用すべき、なんて言っているんじゃない。だけど、今の画一的な就活で、「向いている」人と「向いていない」人のフォーマットが存在してしまうのがおかしい。どこかで「向いていない」人も、どこかで「向いている」と評価されるべきだ。

だからそこで学生を煽ってフォーマットを生み出したり、そのことで飯を食っている人がいるのがちょっと許せない。

就活の仕組みを変えろ、とは言わない。けど、おかしいんだ。評価の軸が、どこかズレている感じがする。

おかしいものを、いきなり変えろとは言わない。Bestではなくとも、Betterな仕組みには違いないのだから、慎重にならなくてはならない。けれど、それでも、おかしいことをおかしいと言わないことは、やっぱりおかしい。




だけど、そもそも僕は間違っているかもしれない。

僕は就活生という身分になる前から、就活に気持ち悪さを覚えていた。だから、勝手に見下して、勝手に蔑んで、実はお手本とされる就活生の姿とか、就活のために大学が用意してくれた情報とか、視界をかすっただけでシャットアウトしてしまった。

だから、僕の捉え方も、この思いも、ただ単に愚かで、無知で、青二才で、痛々しいものなのかもしれない。その可能性は捨てきれない。

だから、これから就活に向き合う人は、僕の言葉を盾に身を守ってはダメだ。ちゃんと、自分で見て、自分で判断するべきだ。

こんな生意気に大きなものに喧嘩をふっかけている僕でさえ、内心自分の判断が正しいのか震えて仕方がない。


大学という時間って、なんだったんだ。

大学という仕組みに、絶望したのは僕だけだろうか。

大学を責めたいわけじゃない。僕が勝手に期待して、勝手に絶望しただけだ。


大学は、今までの小中高と続く教育機関とは異質なものだ。

まず扱う生徒が多い。ゆえに教員と生徒の距離が遠いこと。教育と事務が分離していること。教員の多くは、教育者ではなく研究者である、などだ。

この異質な空間で起こることは、無秩序だ。

今まで自由を制限されていた学生が、途端に解放される。右に行くも、左に行くも、後ろに下がるも自由。

自由という名の、何もない白紙の空間に放り出される。


僕も、当初はそれをモラトリアムと捉えていた。大学は人生の夏休み。今までのように受験勉強に追われることもない、遊び放題な時間だと。

しかし、どうだ。

就活を前にして。「お前は大学で何を学んだ」と自分に問いかけても、やまびこのように響き渡るだけ。

僕はそれを2年生の終わりに、なんとか察知することができた。何者でもない自分が、結局何者にも変わっていないことに。

成長はした。世間知らずもそこそこ卒業できた。でも、それだけじゃ、マイナスが0になっただけ。


何者 (新潮文庫)

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僕は、浪人という、大学選びに人より長い準備期間を貰った。

momijitan.hatenablog.com


それが僕にとってはとても価値のあることだったのだけれど、たくさん考えたおかげか、大学というものに期待を寄せすぎてしまった。

大学に行けば、とりあえず、なんとか先の道が見つかると期待した。

そんなわけはなかった。



以前、大学を中退したブロガーの騒動があった。その時は、「大学やめるなんてコイツ馬鹿か」って思ったのだけれど、今となっては少しうらやましく思う。

momijitan.hatenablog.com


もちろん、大学に意味はあった。ただそれは僕個人としての主観的価値であって、就活で使える客観的価値にはならない

そう気付いたのは、本当に最近だ。


だからといって、僕らは結局、マイナスでも0でも、偽りなく自分をさらけ出すしかない。

何者でもない自分を受け入れて、その恥を全身で背負わなければいけない。




大学の勉強と、自分の勉強

もう少し具体的に、掘り下げる。大学の学びについてだ。

僕が就活を始めて、経験した面接ではどこも聞いてきた。大学の意味を問うてきた。

用意のなかった僕は、とっさに思いついた表面的な返答しか用意できなかった。

反省した僕は、準備としてあらかじめカンペを作っておこうとしたのだけれど、しかし出来上がったそれは、イマイチパッとしないものであった。

なぜかと言えば、それらを真面目に受けた自覚がないからだろう。

それを堂々と語る僕は嘘をつくまでは行かなくとも、話を盛っているような、バツの悪い気分になった。バカ正直な性格はこういう時に厄介だ。


僕が胸を張って、社会人の前に出せるものはと言えば、3年生の間に進めたHP制作の作品だけだろう。

このブログも僕を構成している貴重な資産ではあるが、いささか赤裸々すぎて、僕と「はじめまして」の人には見せにくい。


正直、大学での勉強に関して、誇れない自分がいる。

単位だって危なかったし、再履修だってしている。大学の意味だなんだとほざくにしては、随分な体たらくだ。

そこに「大学の勉強に意味を見出だせなくて、楽しくなくて」なんて高尚ぶった言い訳をつけられないこともないが、いずれにせよ虚しい。


逆に、大学の学びに心の底から誇りを持てる人はいるのだろうか。

僕のような最初は意識高いお化けだった人も、何も考えずに大学全入時代に乗っかった人も、結局モラトリアムに溺れてしまうのではなかろうか。

いつからか講義は出席するだけのものであり、単位のための勉強であり、最低限の合格点が自分100点になっていないだろうか。

僕はそうなってしまった。



以前、述べたように、知識は知恵にしなければ、自分で知識を活かさなければ客観的価値を持たない。

momijitan.hatenablog.com


多くの講義の知識は、知恵とならずに流れ出ていったように思う。


もったいない。

いや、そんなことを言えば、もっと前から、例えば受験勉強で必死に詰め込んだ知識はどれほど残っているのだろう。

中学生の頃、勉強した自分は大人も知らないことを知っていて、それは大人が勉強しなかったことなのだろうと得意げになっていた自分がいた。そんなことはなかった。忘れてしまうのだ、使わないから。

かつて馬鹿にしていた大人に、一歩一歩近づいているのがわかる。


大人になるとはつまりこういうことだ。

悪いとは言わない。恥を知れとも言わない。

ただ、なんだろう。少し悲しくは思う。


勢いが失速したので〆。

こうして読み返すと、なんだか、ただ愚痴をばら撒いただけみたい。

僕はこういう石を水面にぶつけて、誰かを揺さぶりたいのかもしれない。

これぞブログ。これこそブログ。

たぶんね。