もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

誰かが傷つかなきゃいけない世界なんて嫌だ

これは俺の性格のお話。
 
俺はよく「優しい」とか「いい人」とかいう評価をずっと子供の頃からされていて、たぶんこの先もあんまり変わんない気がする。
 
 

 別にそれは特段意識して目指したものでもないけど、そんな自分にわりと満足してる自分がいるし、いろんな人に褒められたり感謝されるのはすごく心地よい。

 
今日のお話は、こんな俺の性格がどうしてできあがったのか、そんなくだらない振り返りと「優しくありたい」と願う人への自分勝手なメッセージ。
 
 
 
性格ってのは先天的なものと、後天的なものがある気がする。
 
俺のぼんやりとした感覚として、自分の性格は先天的にすでに「優しさ」重視タイプだった上に更に後天的なものが加わっているという感じだ。
 
 
 
後天的な要因としては、言うまでもなく、俺の人格形成のほとんどを担っているのはうちの家族だ。特に親父は反面教師。
 
親父の性格については以前解説した通りで、感情的な配慮もなく正論で殴り続けるタイプだ。おまけに何事にも慎重で疑ってかかる。
 
だからその親父の反対を行くように、感情に寄り添い、まずは信じてみようというお人好しな性格が完成するわけだ。
 
 
一方母親はどんな性格だったのかというと、ものすごい努力家で行動力のある人だった。俺の中では優しいイメージが強いけど、それはたぶん母としての顔だからだったのだと思う。だから誰にでも優しかったかというと、正直言って微妙なところだ。
 
性格面では母親寄りとは思うけど、たぶんそれでも俺ほど人を甘やかすタイプではなかった。
 
 
あとはいじめを経験したからっていうのもあるかもしれない。
 
小学校の頃、キレたことがあった。それは自分でも見たことのない自分で、当然いじめっ子に勝てる打算があった上で起こした行動ではあったが、一方的に相手を殴り蹴っていた。
 
そしてその時に気付いたのが、殴り返しても全然スッキリしないってこと。
 
鬱憤晴らしにはなる。けど、本当にそれだけ。思った以上に楽しくなかった。
 
なんでかな。
 
それはきっと俺がそんな展開を望んでなかったから。単純に友達になって仲良く話したかっただけだから。暴力で威圧して、それで震え上がらせることに何の意味も感じなかったから。
 
たぶんいじめって手軽に人の上に立つ感覚を味わえる最悪の遊戯だと思うんだけど、その感覚、俺にはそんな心地よいものって感じはしなかった。きっと独裁者には向いてないんだろうね。
 
そしていじめられて不快にはなるけど、でもそれで対抗しようとも思えなくなった。
 
やられっぱなしの悔しさより、自分がそこで相手と同じ土俵に立って、同じように相手の不快を引き出すための行動をする悔しさのほうが上だった。
 
 
 
よく思うのが、「やられたらやり返せ」ってひどい教えだと思う。
 
なんでやり返すのさ、それじゃ争いは終わらないじゃん。平和にいきたいじゃん。
 
「やられたらやり返せ」を平気で実行する人たちの考えって「自分に敵対の意思を示した相手には興味もないし関係修復なんて冗談じゃない、もう何をしても構わない」って感じなんだと思う。
 
そういう考えって俺は嫌いで、なんだかっていうとそれは結果的に孤独を招くから。そんなにみんな争いが好きなのかな。闘争本能ってやつ?孤高の一匹狼とか目指しちゃってるわけ?
 
確かに社会とかに出る前にぶつかる経験をするってのは大事だろうさ、でも道はそれしかなかったのかな。みんなが幸せになれる道はなかったのかな。
 
傷つかない方法は、なかったのかな。
 
 
 
いや、きっとそれは限りなくゼロに近いんだろう。
 
無傷で生きることなんて不可能だ。
俺もこうして傷を負ったからこそ、傷つけないことの尊さを知れたんだ。
 
誰だって傷ついてるけど、その傷を広げるのは痛いし、逆に癒してもらえるのは心地よい。
 
 
 
俺は人に好かれたいし、傷を癒せる人でありたい。傷つくことから守りきれはしないけど、傷を癒やすことなれきっとできる。
 
相手の傷を広げて嫌われたい人っているのかな。たぶんいないよね。「嫌われても仕方ない」と諦めてる人がいっぱいいるんだ。
 
 
でも、そんなに人に好かれるのって難しいことなのかな。
 
自分がされて嬉しいことをすれば、それでも失敗するときはあるだろうけど、人はちゃんと自分を見てくれるものなんじゃないのかな。
 
そんなことも信じちゃいけないほど世界は残酷かな?味方はゼロかな?
 
 
 
隣人愛を説いてるつもりもないし、別に誰もが仲良くなれるとは思ってないさ。
 けど、いろんな人が、いろんな場所で、「あぁもう無理だ」って諦めて孤独を選択する場面が多い気がする。
 
具体的な方針は示すほどの体系化はできないけど、でもどこかでもうちょっと踏ん張って、譲歩して、何かを変えることができたかもしれないんだよ!
 
 
まぁこんな偉そうなことを言ってる自分でも、「あの時ああ言っていれば」って後悔は山ほどある。でもそういう経験を通してよりよい自分を作り出せている気がするし、失敗は失敗で意識していれば糧になるんよ。
 
 
最近世の中、自己嫌悪ブームと言わんばかりに自分を低く見積もろうとする人が多いよね。
 
一見他人のために自分を抑える姿勢だけど、その恐ろしい側面に気付いてない人が多い。実はそれ、他人を意識しているようで自分しか意識していない行為だから。
当然それは優しさとか思いやりを通り越していて、自己中的発想だってのは知っておいて欲しい。
 
人に優しさとか、思いやりを向けたいときは、他人をよく見るといいよ。他人の心の動きを。
 
 
 
言いたい放題で全然意見がまとまらないや。
 でもとりあえず俺がどういう人間かは伝わったよね。
 
 
俺の理想は、誰も傷つけずにみんなで幸せになることなの。
 
 
実現が可能かどうかとかそういう話じゃなくて、単純に心の持ちようとして、そういうことを願っているだけ。でもどうせなら、自分のちょっとした周囲ぐらいは巻き込んで実現してみたいんだ。
 
 
 
 
 
おしまい。