もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

「死」を感じる

昨日、親戚の葬式に参列した。

祖母の妹にあたる人で、幼いころから何度か面識があり、自分の孫のように接してくださった人だ。関わりが特別深かった記憶もないし、正直言ってしまえば思い入れという類のものはないに等しい。

親戚というのは一緒に暮らしている「家族」という単位の外の人は本当に他人と変わらない。こういってしまうと少し薄情かもしれないけど、そこに集まるのは「自分の家族の元家族だった人達、及びその周囲の家族」にすぎない。

だから、自分がまさかその場の空気にあてられて目頭が熱くなるなんてことはないものだと思っていたし、自分がその場にいるべきではないんじゃないかとさえ思っていた。



人の「死」を目の前で感じたのは人生で2回目。安らかに棺に横たわる人をまじまじと見つめるのは人生で2回目。

死んだ人の顔というのは思いの外、綺麗だ。

1度目は小6、母を亡くしたとき。もう交わした会話も抱いた感情もよく覚えていない。「死」なんて大それたものを全身で感じるには幼すぎたし、そういう意味で今回が初めてに感じるような感覚があちこちであった。

自分が場に不相応とさえ思っていた僕は、当初は心理的に暇であったので、その場の人達の様子をつぶさに観察することにした。

当人の「現」家族であった人達が泣きじゃくるのを見た。冷たい顔に手を当てて、必死に呼びかけているのを見た。なぜか釣られて目頭が熱くなった。

祖母の動じない表情を観察していたが、隙が生まれたような感じはしなかった。楽しいとも不機嫌とも悲しいとも言えない寡黙な表情を貫いていた。心の内がどうなっていたのか想像したけどわからなかった。

父は僕以上に場の雰囲気に当てられてか、目を赤くして鼻をすすっていた。考えてみれば、父の叔母にあたる人だ。


自分は、どうすべきだろう。何を思うべきだろう。

「葬式というのは死んだの人のためじゃない、遺された人達が心を整えるために必要な時間なのよ」なんて台詞をどこかで聞いた覚えがある。

確かに、そうなのだろう。



自分の祖母が亡くなった場合、父が亡くなった場合、自分は喪主としてあの位置に建つのだろうか。

何を思い、果たして涙を浮かべられるのだろうか。

生前「こんな人だった」と代表して話せるほど、何かを知っているのだろうか。

棺の中の冷たい顔に何を思って花を添えるのだろうか。

葬式の時のご飯の味はどんなものだろうか。

どんな気持ちで、灰のようにボロボロになった骨を拾い上げるのだろうか。



母が亡くなった時の自分は、父は、他の家族は、どんなだったんだろう。


母を早くに亡くした僕は、「死」が身の回りにいつ舞い降りてもおかしくないという感覚があった。

父が死んだら。面倒を見てもらっている祖父母が死んだら。友達が死んだら。愛する人が死んだら。子に先立たれたら。あるいは自分が。

事故に巻き込まれて今日か、あるいは明日にだって。ありえない話じゃない。

想定するだけで想像まではしない。したくもないしできない。


ただそういう可能性の混沌を僕らは生きている。それでも大抵生き続けていられるのは、やっぱり、日常こそが奇跡というか、尊いものだと思う。

「生きることは素晴らしい!さあ楽しもう!」って暑苦しく言う気分でもないけれど、「死」を通して「生」を初めて感じているんだな、と思ったり。


こういった機会があると、日常に揉まれて緩みきった糸がピンと張られるような気持ちになる。


なんだか上手くまとまらないけど、今日はこの辺で。