「自分ごと化」ができていない人の多さ
最近、ネットをざぶざぶとサーフィンしていて、思うことがある。
新聞を見ていて、周囲を見渡して、思うことがある。
どうしてこの国の人達は(あるいはたまたま俺の目に入る人達は)ここまで自己中で無責任なのか。
どうして何もかも他人事で、対岸の火事なのだろうか。
誰も消防車を呼んでいないのである!とは (ダレモショウボウシャヲヨンデイナイノデアルとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
社会には問題が溢れている。
政治、教育、育児、経済格差、不正、ブラック企業、差別…
自分のことで精一杯なのは理解できる。混沌で猥雑な現代社会では、まず「明日は我が身」なのは仕方ないことだ。
でも、それだけでは、社会は一向に良くはならない。
自分だけで精一杯で、自分のだけにスポットをあてているうちに、視野が狭くなっていないだろうか。
自分に都合がいいように、自分の言いたいがためだけに情報を切り取ってはいないだろうか。
視界の端に写った情報をスルーしていないだろうか。
自分が良ければ、例え将来の自分の子供や子孫にどんな苦しい目にも合えというのだろうか。社会に諦めを抱いたまま大人になって、またその思想を伝聞してしまっていいのだろうか。
断じて違う
というか、現にそういう大人が多すぎる。そうなりそうな若者予備軍も多すぎる。
個人的に、そういう人間が大嫌いだ。
昔から、一番なりたくない人間だ。そういう人間が平然と、間違ってない風に下の世代に振る舞っているから、再生産が止まらない。
そういう人間に限って、「批判は良くない」だの「みんな間違ってない」だの言い出す。かわいい自分が侵害されたくないだけのくせに、さも争いを嫌うかのような薄い平和主義を言ってのける。
我々が今最も意識を向けなければいけないのは、教育だと考えている。
再生産を許してはいけない。
良くない流れは、どんな損害や重荷を背負っても、自分までで止めなければならない。繰り返してはならない。沈黙は容認と同じだ。
いつまで口を閉ざして、耳を塞いで、狭い景色ばかり見ているつもりだ。
かくいう俺も、半年も前は、どうでもよかった。
とりあえずの幸福が目の前にあれば、あとは静観しているだけで満足だった。
海外に行った。
本当に世界観がひっくり返った。
自分の国を、社会をどうとでも思っていない自分が恥ずかしくて仕方なくなった。
どうにかしなければならない。
とりあえず今できるのは声をあげることだけだ。まずは周囲に喚き散らすことだけだ。幸いにも環境はここにある。
まだまだ自分には足りなすぎる。
足りないことがわかるまで時間がかかりすぎた。
うちの大学の教授が「自分ごと化」が大事と言っていた。
「見える化」みたいで多少イラッとくる単語だ
そのとおりだ。社会を構成しているはずの各々が、「自分ごと化」ができていない。
仕事だけの話じゃない。
もっと大きい視点での社会に対しての「自分ごと化」だ。
人はどうにも楽をしたい生き物らしく、視点を狭く細かくしがちだ。
まずは物理的に周囲を見渡すぐらいしたらどうだろうか。
いい加減、頭と画面の中の情報を全てと思い込むのはやめたらどうだろうか。
最近、自分の中身を説明できない大学生の同期を目の当たりにして、頭が痛くなる。
情報が足りていないのもそうだが、脳内のリンク付けがまるで足りていない。シナプスが死んでいそうだ。