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社会的に「男」であることをやめたい。目指すはジェンダー・センシティブ

前々から、男をやめたいと思っている。

ここで誤解しないで欲しいのが、僕は性的マイノリティではない。マジョリティ同様に異性に恋をし、同性に性的興奮をすることは無い。


僕がやめたいと言っているのは、「社会的な男」の話。「sex」でなく「gender」の意味だ。

僕は一般とされる男性像が嫌いで嫌いで、仕方ないのだ。
特に、女性に対しての「男性」という存在のあり方に強烈な嫌悪を感じる。自分がその一員であることが我慢ならない。

女になりたいわけじゃない、けど、男として存在していたくない。



きっかけはこの記事を読み、
yutoma233.hatenablog.com


更にそこで紹介されていたこの記事を読んだこと。
cakes.mu


女々しい性格と、祖父への反面教師

元々、男らしい性格ではないと思う。

それは単純に優しすぎたのと、勇気がなかったのと、運動が苦手で鈍くさかったのと。

誰かに強くものを言うのが苦手だったし、そもそも強く言えるほどの活力、自信の源がどこにもなかった。ナヨナヨした、一部の活発な女子にすら劣るほど女々しい男であった。

真面目に「女子に生まれたかった」と思ったこともある。

そんな僕の家族は、中学から祖父母*1であり、家長である祖父は見事に昭和の男性像として家庭内で君臨していた。

22歳となってある程度大人として接するようになった今でさえも、祖父の言動に心理的反発を覚えることが多い。


祖父の趣味は競馬やゴルフ、テレビにカラオケ。パソコンも競馬のデータ取りのために、と始めてそれなりに使いこなす。

老後の趣味が豊かなのは喜ばしいことだが、そのために散財し目新しいものがあれば躊躇わず買ってくる。年金生活にしては随分な贅沢をしているように見えた。

買い物にいけば足の悪い祖母を置いて振り返ることもなく歩いていくし、祖母にはわからない趣味の話を延々と聞かせるし、喘息持ちの祖母の咳をあからさまに嫌がり「薬飲んだのか」と迫る。

祖母はそんな祖父に何も口を出さなかった。かといって不満やストレスを抱えているようにも見えなかった。

当時の僕には理解ができなかった。どうして家庭内の男というものはここまで傲慢で高圧的で唯我独尊なのだろう。一方女性というのはどうしてこんな我儘な生き物を伴侶と認め、また尽くすのだろう。そう思った。


今思えば、そんな中にも「食に一切文句をつけない」「体調を崩せば看病する」など最低限の、けれど幼い僕にはできなかった気遣いがあった。


祖父によく言って聞かされた。
「お前が嫁をとる時は、家事が得意で、余計な口出しをしない女性を選べ」


なんだそれは。それはただ男性が都合がいいだけの女性像じゃないか。

きっと、祖父が生きてきた時代背景、経験に基づけば、当然の結論かもしれない。それが標準で基準だったかもしれない。それも一つの安定した家庭の形かもしれない。


でも僕にはやっぱり容認できない。

自分が男性らしくあれと求められる以上に、女性に"男の都合がいいだけの"女性らしくあれと言いたくなかった。

もっと女性が報われていい。もっと大切にされていい。

少なくとも自分はそういう大人、彼氏、夫であろうと誓った。

女子を人と扱わない、男性という生き物

ふと意識して見渡すと、男という生き物に嫌悪しか湧かなかった。

今までの社会が、歴史がそれを是としてきたから。それだけの理由で、我が物顔で威張り散らす愚かな生き物。


女性の寂しさを埋めるのは自分だと疑わず、女性の懐の深さを自身の実力と勘違いし自惚れ、挙句の果てに「母親像」「小間使い」「カウンセラー」など自分に都合の良い役目を押し付け続ける。女性はまるで所有物。


自分はそうじゃないと思い込んでいた。優しさを武器に、荒んだ心を癒そうと、献身したつもりだった。

でも自分の内に潜む欲望は、結局紛れもない「男性の欲望」そのものだった。優しさを交換条件に結局「女性像」を求めていた。

そう気付いた時、たまらなくなった。身体を掻きむしりたい衝動に駆られた。

あれほど意識して遠ざけようとしていたのに、結局自分は「男性」という生き物だった。もはや「男性」という属性が先天的に女性を侵害するような性質を備えていたのかもしれない、そう思った。



「女性だって男を財布だと思い込んでいる」、「女性ばかりセクハラだなんだと騒がれて不公平だ」そういう意見をちらほら散見する。

そんなことはない。いや、むしろそうであっていい。


むしろ公平性を保つなら、ようやく女性の権利に世間が振り向くようになった現代、男性は女性からの長い歴史的な雪辱を果たされるべきだ。


極論ではある。が、それほどに男性は罪深い存在であるし、その歴史を繰り返す危険性を孕んでいると僕は認識している。

「昭和の世代を社会から追い出せば大丈夫」なんてのも甘いと思う。
昭和世代に育てられた我々の意識には、無意識に悪しき固定観念がこびりついている。これを意識して排さなければ、女性が活躍する社会どころか、女性が精神的に健全でいられる社会など夢のまた夢だ。


性別を否定するのでなく、より慎重に

ここまで男性をこき下ろし嫌悪の限りをぶつけてきたが、「男性を叩きまくれ!」と煽りたいわけではない。
僕は最終的に「ジェンダー・センシティブ」という立場を取りたいと思っている。

ジェンダーセンシティブとは、性別に、より慎重であろうとする考え方だ。

ジェンダー・センシティブという立場は、差別につながりうるカテゴリー(=男女)をただ消去するのではなく、そのカテゴリーの重要性を尊重しながら、カテゴリーが及ぼす作用を注意深く調整していこうとする立場なのだ。
(中略)
カテゴリーによる差別をなくそう、と主張することはたやすい。しかしそうした主張がゆきすぎれば、今度は当のカテゴリーを必要とされる立場が阻害される結果につながってしまう。
(中略)
「差異を肯定しつつ差別を批判する態度」こそ、「ジェンダー・センシティブ」のひとつの本質ではないだろうか。

こちらの本の主張を引用しています。


ジェンダー・センシティブとは、生物学的性差(セックス)だけでなく、社会的性別であるジェンダーというものがあり、それが重要であるとみて、一見「自然」に見える事柄(性別による異なる扱いや個々人が持っている性に関わる規範)の中に「つくられたジェンダー」、「規範/差別/抑圧としてのジェンダー」を見出し、ジェンダー・バイアスをもたずに接する態度のこと、ジェンダーフリージェンダー平等を目指して敏感に接することをいう。

以下のサイトから引用。
http://www.geocities.jp/idadefiro/gender1.html



つまり簡単に噛み砕くと、ジェンダーセンシティブの主張は3ステップにわけられる。

ジェンダーにおける差別を許してはいけない

②しかしジェンダーにおける差別は、男女そのものを消すことでは解決できないし、そもそも消すことは不可能でどちらかの不利益につながる
(男女をごちゃ混ぜにして全く同じ扱いをしても解決しない。例えば男女同室着替えなど。)

ジェンダーの存在は肯定しつつ、注意深く接し、不利益が生まれそうな場合には修正を促そう


要は、ただ「男女平等にしろーバカヤロー!」と叫ぶんじゃなくて、臨機応変に対応しようぜって話。僕の主義はこの主張にピッタリ当てはまる。


男に生まれても、男らしく生きなくたっていいし、かといって男らしく生きたっていい。女も同様に女らしく生きてもいいし、女らしく生きなくたっていい。個人がどうありたいかは自分で選べる、そしてそれはバイアスに縛られるべきでない。

僕がいくら「男らしさ」に嫌悪を持っていたからって、それは人に「お前男っぽいな!やめろよ!!」なんて強要できるものじゃない。
「女らしさを求めるのをやめろよ!」とは言えるけども。


ほんとは僕だって、自分の性別を、自分の属性を、カテゴリーを否定したいわけない。
だけどそうせざるを得ないほど、今の日本社会はパワーバランスが偏っている。多くの男性の意識の底に差別の種が眠っている。

男性は傲慢を自覚すべきだし、女性はもっと声をあげるべき。


少し前にGoogleが女性に差別的な見解を示した社員を解雇したというニュースがあった。僕は胸のすく思いになったが、日本でこんな話は聞かない。

女性蔑視社員を解雇できるGoogleとできない日本企業の差【勝部元気のウェブ時評】 - エキサイトニュース(1/2)

グーグルが多様性否定の人物を解雇 正解か判断ミスか - BBCニュース



一人ひとりが性別にもっとセンシティブに、もっと敏感に、もっと慎重になって欲しい。



ジェンダー・センシティブに興味を持った方、ジェンダー・フリーとの差異が気になった方には前述の書籍を強くオススメします。ジェンダー論に始まり、日本社会の現状をよく反映した、よくある「男女格差本」とは一線を画する良書です。

*1:小6に母を亡くして祖父母に引き取られています