メープルたいむ

メープルもみじがお送りする、Webと社会とサブカルといろいろな雑記。エモい×情報量。

完璧を目指さないこと、不完全を許し合えること

大人になることは、完璧を目指さなくなることかもしれない。

誰かと愛し合うというのは、不完全を許し合えることかもしれない。


不完全なる完全主義者

僕は、自分を不完全なる完全主義者だと自覚している。

元々の性格が几帳面で、散らばったスリッパを見れば片付けたくなるし、漫画は巻数で綺麗に並んでいないと落ち着かないようなとこがある。

でもそんな几帳面には収まらないような完全主義が自分の中に眠っている。

自分や、また人々が未熟なのはわかっている。けれど時折それが許せなくなる。


人に強くあたってしまう人がいたとき、どうしてそんな感情的に接することしかできないのかと憤りを覚える。

思いやりのない、論理的で理路整然とした正論を振りかざす人がいたとき、どうしてそんな感情の欠いた言葉で人を責められるのだろうと怒りがこみ上げる。

自分が些細な言葉や言動で人を追い詰めたと気付いたとき、猛烈な自己嫌悪が襲ってくる。どうして自分は人を傷つけることに気付けなかったのだろう。


もっと優しいやり方があるはずだ。
もっと上手い立ち回りがあるはずだ。
もっと誰も傷つかない方法があるはずだ。

完璧も正解もない人の心の機微に、妙に神経質で完璧を目指そうとする自分がいる。

もっと優しくもっと柔軟にもっと心広くもっと器用に、それを追求した人間であろうとしてしまう。また心の中でそれを周囲に望んでしまう。


些細な言葉一つにさえ
もっとこういう対応をして欲しかった。
もっとあんな対応ができたら良かった。

いつも自分の理想との差分に絶望と後悔を重ねている。




大人たちは完全を諦めている

僕の尊敬する大人たちは、完全を諦めているように見える。完璧を目指していないように見える。

かつての僕にはそれが、なんと悲観的でなんと放棄的な終着点なのだろうと嫌悪の対象だった。


例えば父。

父の僕への言葉はいつも冷たく固く、そして正しく、僕の心はそれに拒否反応を出してやまなかった。

父には信念があった。どんな不器用でも、どんな傷つけることになろうと、伝えるべきを伝えるのが大事。

理解はできた。でも納得はできなかった。


けれど、いつからかそんな有り様に尊敬を覚えるようになった。

父は厳しく僕に言い放ちながら、そんな自分を息子が嫌悪しているのをよく知っていた。時折自嘲気味に自ら言ったり、祖母に不安を漏らしていたりした。


僕は完全を諦められない子供だった。そして親の視点も知らない子供だった。

「もっと優しくしてくれ」と喚き散らすことしかしなかった。

親たるものもっと子に愛を注ぐべきだ。完全なる見本であるべきだ。そう思い込み続けていた。


ふと自分がそんな立場に立たされたら、と想像できたとき、父の苦悩が想像できないほどのものだと想像できた。

完全であることはできないと知っていると気付いた。

何かのために何かを切り捨てる強さを持っていると気付いた。


思えば、そうだった。

大人たちは堂々と不完全だった。



不完全を許し合う

明確な惚気になってしまうが、僕は自分の彼女ととても気が合っていると思う。

趣味だったり生活スタイルだったり心の有り様だったり、どこか似ていて、意気投合して平和に過ごしている。

けれど、いつだって円満で不都合がないわけじゃない。

すれ違いもするし、傷つけることもある。そのことで心が重くて何も手に付かない日もある。

そもそも、僕と彼女は生きてきた道や精神スタイルは全く別種のものだ。

理想が強い僕は、細かいその摩擦に一々動揺し、場合によっては関係の継続に不安を覚えてしまう。


けれどそんな僕を、彼女は「大丈夫、嫌いになったりしない」とその度に言い聞かせてくれる。

それはとてもありがたいことで、僕はその度に動揺した心が落ち着き、平静な日常に戻って来ることができている。幸せを実感できている。



ふと気付いたのが、これが人を愛するということかもしれない。

彼女は不完全な僕を許してくれる。

完全であれと、自らにかけた呪いを解いてくれる。


僕もまた彼女の不完全さを許している。

彼女にも不得手なことはたくさんあるし、不器用でないとは言い難い。

けれどそれは何の問題にもならない。そうであったとしても、それは嫌いになる理由にはならない。拒む理由にはならない。存在が何より尊い

それは選んだ者の責任でもあるし、かっこつけた自分のプライドでもあるし、選び返してくれたことへの恩義でもあるし、また何よりそうしたくないと強く自分で思う。


今まではできなかった。相手の不完全さに目をつむって耐えることはできても、許すことができなかった。

それが許すことができないほどの不完全さだったのか、また僕の心の有り様の問題だったのか、今はもうよくわからない。



許し許されというのが、愛し合うことなのかもしれない。


「私たちは今!愛し合っている!!」なんて言うのは、やはりどんなに自信があってもこっ恥ずかしい。

けれど許し合えていることを実感できたのは、なんとなく、心地がよくて幸せなことだ。


結び

人はいつか大人になる。人はいつか愛を知る。

必ずしも誰もがそうなるとは限らないけど、多くの人がその王道を行く。


不完全であることを誇れない自分がいた。

けれど許されることで前に進めた気がする。堂々とできれば大人になれる気がする。


不完全なのを自慢しろ、というわけじゃない。
より上を目指さなくても良い、という話じゃない。

けど諦めて許し合って、そういう飽和も悪くない。

そう思えただけの、お話。