自己犠牲と譲歩と自我と、自信
自分より人。
自分の意思と人の意思が衝突しそうになったとき、あるいは、人の強い意思を感じ取ったとき、決まって僕は相手に道を譲る。会話の主導権という名のバトンを渡す。
喧嘩になりそうなとき。
相手の機嫌が悪いとき。調子が悪いとき。
相手が何か強い主張を抱えているとき。
会話を回したそうにしているとき。
それを感じ取った瞬間から僕は一人の人間ではなく、相手にとってのリスナーであり、相槌係であり、カウンセラーであり、なんでも屋になる。
譲歩、どころか、自己犠牲のような気もする。
いつからか、あるいは最初から、僕はそんな自己犠牲的な生き方を選択してきた。
あらためて振り返ると、損得で言えば見るからに損であるし、精神的な負担も少なくない。それでも、その生き方を変えられない、替えられない、自分がいる。そんな話。
どうして自分を犠牲にできるのか
例えば、典型的な、むしろ極端な我の強い人がいるとしよう。
自分は自分。相手は相手。
私は私であるがゆえに一個人としての権利を持っており、要するに相手の顔色やらなんやお伺いを立てて合わせる必要はない。逆になぜ私がそうしなけばならないのか。
私の意思を阻むべからず。我道を閉ざすべからず。
いやはや実に勇ましく合理的である。
そんな勇猛果敢な戦士殿からすると、僕のようなナヨナヨ、ニコニコ、ペコペコの三拍子は理解に苦しむだろう。もはや一種の気味の悪さまで感じるかもしれない。
そんな戦士でなくとも、自己犠牲というものにネガティブな印象を抱く人も少なくないだろう。
そんな方々に説明、というか、弁明として、僕の自己犠牲メカニズムを解説しようと思う。
まず自己犠牲はどのように生まれたか、というと、たぶん褒められたかったから。
幼い頃の、親の祝福を心待ちに手伝いをするような、そんな素直な感覚が出発点だっと思う。
その「褒められたい」感覚が「よく思ってもらいたい」「笑ってもらいたい」「楽しんでもらいたい」「快適さを感じていてもらいたい」というように派生していった。
実際にそういう結果になるよう、自らの言葉と反応、表情、その他を半ば無意識にコントロールするようになった。
僕は聞き手としてのスキルにポイントを全振りし、結果、「少なくとも強烈に嫌われることない」人格を自分とした。
要するにまとめてしまえば、嫌われること、ガッカリされることを何より恐れたのだ。
なぜ自己犠牲が可能か。答えは簡単だ。
自己を犠牲にするより恐れる脅威があるからだ。
知覚過敏のように、人の表情、目、声が曇ることを恐れている。恐れすぎるあまり、あらゆる場面で予防線を張りたがる。それが例え、関係崩壊に結びつかない些細なものでも、例えばちょっぴり引かれるとか、ガッカリするとか、そんなことでも必死にそれを避けたがる。
一瞬でも、自分の存在の認証が揺らぐことが恐ろしいし、落ち着かない。
自らの存在価値に自身の認証度を深く組み込んでしまっているからだ。
譲歩を使命とする自我
人の認証におびえる弱々しい人格だけで僕はできていない。
むしろ、その表裏一体とも言うべき強烈で攻撃的でさえある自我が存在する。
「譲歩を使命とする」自我だ。
これは僕の内側で、周囲に対しての反面教師として、幼い頃から培ってきたものだ。
自己犠牲、とまでいかなくても、譲歩のできない人は多いと感じる。道路ならいざ知らず、人間関係の道は特に。
自分を抑えられない。曲げられない。控えられない。我慢出来ない。
「なぜ譲らねばならない」と人は言う。
逆に問う。「なぜ譲れない。」
確かに道路のように義務はない。しかし人の道とて、譲らねば通れぬ道もある。そこで我を通すことで滞る交通もある。
譲歩は使命だ。譲歩は宿命だ。譲歩は絶対原則だ。
そう強く思う自分がいる。しかしそれは人に強要してはいけないものだ。それ自体が主張と矛盾してしまう。しかし、そうしたいほどに思いは強い。
なぜ好んで争いに身を投じるのか。なぜ争いの種を撒くのか。どうしてそうまでして。たった一瞬、鉾を収めるだけで何事も起こらない平穏が続くというのに。
以前、とある親しかった人に失望した理由がそれだった。
その時の僕は、相手の「譲れない怒り」に対しての「譲れない怒り」を覚えていた。
そういう自我が、自分の中にはある。
心を広く持て、と人に言い聞かせながら、それを言わずに我慢出来ない「心の広くない自分」がいる。
混沌の中で自分を客観する
当たり前だが、どんな生き方を選ぶかはその人次第だ。
自分の生き方には責任を持たなければいけないのと同時に、誇りも持っていいと思う。貫いていいと思う。
生き方の正解なんて、自分が決めずに誰が決めると言うのだろう。
もちろんそれは自分だけの正解なのだから、人に押し付けてはならないと思うけど。
こんな醜い内面を晒しておいてなんだが、僕は自分の生き方がそこそこ気に入っている。
最近はとある人のおかげで、自信を持って、「僕こういう人間です」
と素直に言えるようになった気がする。
自分だけは、どんなことがあっても、例えどんな理不尽に衝突しようとも、自ら先に譲れる人であろうと。先に頭を下げられる人であろうと。そんなことをずっと思っている。
それが僕らしい生き方だ。自分の中で納得して選びとった正解なんだ。
人に優しくできるという長所があって、自分がくたびれるという短所があるという生き方だ。
後悔はない。
みんなちがってみんないい、なんて月並みの結論に落とし込みたくはない。
自分とは違いすぎる存在を認めるのは簡単な事じゃないし、かくいう私もそこまでの度量はない。
けど、認めるか認めないかに関わらず、世の中にはいろんな考えがあって、いろんな生き方があって、分裂したり結合したり混ざりあったり、ぐちゃぐちゃしてるんだと思う。
だからそれはそれで、どうしようもなくて、どうでも「いい」ことなんだ。
私だけの正解。あなただけの正解。私とあなた、2人共の正解。2人共の不正解。
正解も組み合わせも、もういろいろ、ぐちゃぐちゃだ。
「みんながみんな大正解!」って結論を出すんじゃなくて、ただ「そういう」事実としてそれを受け止めるしかない。
つまりそう、混沌だ。
それぞれがそれぞれ、一寸先は闇だ。
ただ一つ、個人的なお願いをするなら、常に自分を外から眺めていて欲しい。自分を客観して欲しい。
少なくとも俺は、そうやって振り返りながら歩いてきて、自信をつけた。
もちろん最初からできたわけじゃないけど、最近は人並みにはできてると思う。
「自分がどう見えるか」を意識することは、自信に繋がる。
「誰に何を思われても気にしない」という人だって、全く周囲を意識してないなんてありえない。
自分の中にもう一人、「周囲を意識した自分」を作るんだ。だいたいの人は、最初から心の奥底に潜んでいると思うけれど。
選べる生き方の選択肢はそれぞれ違って限りがあっても、いくつかの選択肢はあると思う。その中でよりよいものを、自分が自信の持てるものを選択して欲しい。
自分と周囲を意識した自分が納得がいけば選び続ければいいし、納得がいかなければ選び直せばいい。
自分は「替え」られないけど、「変え」れるし、どんな自分でも自信をつけることはきっとできる。
そういう、お話。