もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

人見知りとか劣等感とか

久々にブログ書けそうだったので、思い切ってポチッとな。

星野源さん、テレビ番組で「人見知り」についての持論を述べる「すごく納得した」「耳が痛い」 (2ページ目) - Togetterまとめ

この記事を発端にいろいろ考え出してTwitterで呟いてたら文章量がとんでもないことになったので、まとめ。


なんかもう話題のブレようが酷いですが許して()

人見知りという言い訳と軽蔑


とりあえず、星野源さんの主張には賛成で、話し始める前に言い訳のように言う「人見知りだから」「コミュ障だから」は好かないなって意見。 

というか、そもそも人見知りとかコミュ障って言葉が嫌い

言い訳と軽蔑の役割だけで使い続けられてるから、嫌い。

そしてコミュ障を悪で、コミュ強が善みたいな、ちょっとウェイウェイして活発だっただけの人が得しちゃうような社会の雰囲気が嫌い。

もちろん人見知りがマイナスで、色んな人と臆せず会話できる能力はプラスだとは思う。でも、そんなの個性の一部みたいなもんで得意不得意の話だし、そんなので人間としての優劣が決まってしまうのは変だよ。

いや、実際、そんなので優劣が本当についてしまうほど、世の中の仕組みは馬鹿じゃないと思う。コミュニケーションで優劣がついてしまうのはきっと印象だけ。


運動と劣等感




俺は小学校の頃から、運動と呼べるもの、スポーツが嫌いだった。
体育の時間は苦痛だったし、できることならずっと見学で参加もしたくなかった。


もちろん運動苦手なのを人のせいにしたいわけじゃないんだけど、でも結果として、きっと運動を「嫌いにさせられた」ようなところがあるなって気付いちゃった、ってお話。

元々苦手なのはもちろんだし、センスもないのだけれど、たぶん嫌いではなかったと思う。

今だから冷静にそう思えるのかもしれないけど、別に運動もスポーツも、それ自体は嫌いじゃなかった。

ただそれに夢中になっていて、なおかつそれが得意な人が怖かった。彼らに悪意なんて全くなかったのだろうけど、彼らは俺の鈍くささ、役立たずぶりにイライラしていたし、自分達が楽しむのに邪魔だと心のどこかで思っていた。

それが悪いことだなんて言いたくはない。集団でできていない誰かが足を引っ張れば、当然起こりうる心理だ。

けど自分がその場にいるのを望まれていないとわかった時、そこに居続けるのはきっと苦痛だった。なぜなら自分はその場にいるだけで迷惑をかけてしまうのだから。


かくして俺は運動が嫌いな人生への路線に入ってしまったわけだけれど、よもやこれと同じことが、コミュニケーションでも起こるのではないか。そう思った。


トラウマを一度抱えた人間に表面的な励ましは虚しく響く。

ましてや「頑張れ、気合でなんとかなる」だなんて根性論をぶつけられても、どうにもできない無力感とそんな自分への劣等感が増すだけだ。


気楽に生きたい

なんだか、コミュニケーションといい、運動といい、「周囲に迷惑をかけないように、嫌われないように」みたいな圧力が強いのがしんどい理由だと思う。

どこからかかってる圧力なのかはわからないけど。あるいはただ自分の中で、被害妄想的に作り出してるだけなのかもだけど。


ここで原点回帰して、星野源さんの言葉を抜粋

本当は人好きなのに、人見知りだって言っちゃうことは、相手に僕人見知りなんで、なんか気を使って下さいって言ってるのと一緒だなって。それってすごい失礼だなと思って、失礼だし、何様なんだって思ったんです、自分が。だから、嫌われてもいいやって段々思えるようになってきて…


たぶん源さんが言いたかったのは、「人見知りと名乗るのをいますぐやめろ!」とかじゃなくて「気楽に構えなよ」みたいなニュアンスだと思うのよね。