真の教育とは、愛とは?アドラー心理学「幸せになる勇気」
読書記事であります。書評という名の盛大なネタバレであります。
今回のお題は、「幸せになる勇気」
- 作者: 岸見一郎,古賀史健
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2016/02/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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昨今話題でドラマ化もされている「アドラー心理学」の布教本、「嫌われる勇気」の続編となる一冊です。
- 作者: 岸見一郎,古賀史健
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/12/13
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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僕が最初に「嫌われる勇気」を読んだのは、3年前の浪人してすぐの四月頃でして、当時はとてもアドラー心理学に感銘し心酔しておりました。そこから一年ぐらいは愛読書として周囲に絶え間なく宣伝もしていました。
が、それからもう2年以上。さすがにブームは過ぎ、すっかりアドラー心理学が抜けきった今になってなぜかふと、手に取ったのが本書です。
この本の印象を一言で表すならば、教育と愛の本です。
間違った教育
この本では教育のあり方にとても重点を置き、社会で当たり前とされてきた教育を否定している。
学校、会社、家庭、人と人が縦に繋がる場所に多くの「癌(がん)」が存在している。そう筆者は、アドラーは訴えているのだ。
叱る教育は軽蔑を招く
誰もが教師や親に叱られた、怒りの感情をもって鉄槌を下されたことがあると思う。
あなたはその教育をどう捉えるだろうか。
アドラー心理学ではその叱る教育を全面的に否定している。
「裁判官の立場を放棄せよ」
あなたは裁きを下す特権など与えられていない。法と秩序を守るのはあなたの仕事ではないのです。教育者とはカウンセラーであり、カウンセリングとは再教育である。
多くの人が教育者として子どもの前にたった時、自分を裁判官と思ってしまうらしい。つまり、「自分こそが法と秩序の番人であり、子どもの罪に対しては裁きを与えねばならない」と思っているのだとか。
罪には罰を、と考える大人は多い。しかし、罰があったから罪が減ることがあっただろうか。叱るという罰は抑止力になっていただろうか。
叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうちに働きます。
怒りや暴力を伴うコミュニケーションには尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。
なるほど。幼いころから、叱ってくる大人に対して感じていた違和感はこれだったんだね。
どれだけの正論でも、怒りの感情を感じ取ってしまうと、心理的に抵抗が出て相手の言うことが頭に入ってこなくなるやつ。それはつまりその瞬間、自分がその人を軽蔑してしまったからだったんだ。
軽蔑している他者の言葉を受け入れることができる人がいるわけないよ。
教育者が自立を妨げている
この本は教育者に辛口だ。本来子どもの自立を願うはずの教育者が、むしろ自立を妨げているというのだ。
教育者は、どうしても子どもたちに過干渉になり過保護になる。その結果、何事についても他者の指示を仰ぐような「自分ではなにも決められない子ども」を育ててしまう。
→なぜか
もしも生徒たちが自立してしまったら、あなたと対等な立場に立ってしまったら、あなたの権威は崩れ去ってしまう。
子どもたちが失敗したとき、特に他者に迷惑をかけたとき、当然あなたもその責任を問われます。どうすればその責任を回避することができるか?答えは簡単です。子どもを支配することです。子どもたちに冒険を侵さず、無難で、怪我をしないような道ばかりを歩かせる。可能な限りコントロール下に置く。子どもたちを心配してそうするのではありません。すべては自らの保身のためです。
多くの大人がこの言葉を受け取ると、きっと憤慨して「そんなことはない!」を声を荒げたくなるだろう。「わたしは子どものためを思って行動している」と言い張るだろう。
しかし僕はこの考え方を否定できない。実際に見てきたし、感じ取ってきた。「あなたのため」と言いながらどこか「自分のため」のような大人たちの言葉を。
大人たちは気付いていない。子どもがいかに敏感で繊細か。子どもたちは大人自身が気付いていない傲慢を肌で感じ取っているんだ。
承認欲求の否定
アドラー心理学は叱る教育を否定する。しかし、それだけに留まらず「ほめる教育」も否定している。
人が称賛の要求に走るのは、つまるところ承認欲求だと多くの人が考える。俺自身もそうだ。
親や周囲に褒めて欲しい。賞賛して欲しい。
「きみは不完全な存在じゃない」「きみには価値がある」と伝えて欲しい。
しかしそれでは人は永遠に自立できないという。
承認には終わりがないのです。他者からほめられ、承認されること。これによって、つかの間の「価値」を実感することはあるでしょう。しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部に与えられたものにすぎません。
ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。
耳が痛い話だ。
確かに承認を求め続けているけど、「完全に承認が満たされた」と感じたことは1度もなかった。つかの間の快感だけで、その先に残るものが一つもない。何かにずっと依存していないといけない。
確かにそれは自立できているとは到底言えない。じゃあどうやったら自立できるのか。
「普通であることの勇気」が足りていないのでしょう。ありのままでいいのです。「特別」な存在にならずとも、優れていなくとも、あなたの居場所はそこにあります。
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。
多くの人が「人より特別でなければならない、それが個性だ」って思いこんで必死になっている雰囲気は確かにある。
社会が言い聞かせてくるんだ。
「あなたの個性はなんだ、長所は、特技は、あなたの人材価値は」って。
俺はそれが怖くてたまらない。特別な何者かにならないと、自分の価値がないみたいで。
でも、ほんとうに特別である必要ってあるの?
特別に思えない自分にも家族がいる。親戚がいる。友達がいる。確かに、居場所はそこにあるじゃないか。
アドラーはそう言ってるんだ。
愛することこそ難しい
本書は教育の話を通じてやがて「愛」の議論へと帰結していく。
アドラーが定義する愛とは、とても厳しいものだ。
少なくとも俺はこの定義にのっとるなら、誰も愛せていなかったし、愛されることばかりに着目していた自己中ということになる。
自己中からの脱却
愛とは「わたし」からの解放であり、自己中からの脱却だとアドラーは言う。
自己中とは、傍若無人に己の強さによって周囲を屈服しようとする行為だけではない。
己の不幸、トラウマといった弱さをアピールする行為も、自己中にあてはまる。
人は弱さで他者を操作しようと目論むのだとアドラーは言う。
かつて彼らは、ほしいものすべてを与えられる黄金時代に生きていた。そして彼らのなかのある者は、依然としてこう感じている。十分長く泣き、十分抗議し、協力することを拒めば、再びほしいものを手に入れられるだろう、と。彼らは人生と社会を全体として見ず、自らの個人的な利益にしか焦点をあわせない。
耳の痛い話だが、肯定せざるをえない。弱さをアピールしている自分自身は確かに「誰かが助けてくれる」ことを期待していた。
人はなぜこんなにも弱さを武器にする自己中になってしまうのか。その理由をアドラーは赤ん坊時代の身体的劣等性で説明している。
原則として子どもたちは、自活することができない。泣くこと、つまり己の弱さをアピールすることによって周囲の大人を支配し、自分の望みどおりに動いてもらわないと、明日の命さえ危うい。彼らは甘えやわがままで泣いているのではない。生きるためには「世界の中心」に君臨せざるをえないのです。
なるほど、確かに、赤ん坊のときは自己中が当たり前だ。弱さを武器にしないと生き残れない状態から人生がスタートしているんだ。
つまり問題は「自己中になってしまった」ではなく「自己中を捨てられない」ことなんだ。
われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。「わたし」から脱却しなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。
愛とは決断
「この人は自分を愛してくれるのか?」
そう思っているうちはまだ自己中心性から抜け出せていない。愛する勇気、幸せになる勇気が足りていないとアドラーはいう。
人は愛することを恐れているからだ。
人は意識のうえで愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。
愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。
つまり、ほんとうは愛されるかどうかが不安なのではなく、愛されるかが不確かなのに愛するのが不安ということらしい。
確かに、自分の中にも「相手が愛してくれたなら愛せる」みたいな感覚はあった。まさにギブアンドテイク。しかも自分はあくまで後攻で受け身のギブアンドテイクだ。無責任この上ない。
なぜ愛することが不安なのか、それはきっと自信がないからだ。
自分の価値を信じることができない。自分が愛されるはずがないと思い込んでいる。だから「相手が自分を拒絶しない」という担保がないと踏み出せない。
この本にたどり着くまで、僕は自信は自分から作れないものだと錯覚していた。他者から、社会から与えてもらえるものだと勘違いしていた。
まぎれもない甘えだ。自己中だ。誰かが、何かが助けてくれることばかり希求していた。
そんなわけなかった。いつまでも子どもでいられない。
自分で立ち上がらないといけなかったんだね。
まず無条件に愛することを決意しなければ、前に進めないんだ。
それはとてつもなく勇気がいることだ。
勇気を振り絞れ。
あなたの願いは「幸せになりたい」ではなく、もっと安直な「楽になりたい」だったのではありませんか?
たとえば「花が好きだ」と言いながら、すぐに枯らしてしまう人がいます。水をやるのを忘れ、鉢の植え替えもせず、日当たりのことも考えないで、ただ見栄えのいいところに鉢を置く。たしかにその人も、花を眺めることが好きなのは事実でしょう。しかし、「花を愛している」とは言えない。愛は、もっと献身的な働きかけなのです。
おわりに、アドラー心理学を知らない人へ
いかがでしたでしょうか。
これは本の一部を僕なりに要約した紹介にすぎないのですが、これだけでも多くの人が様々な感情を抱くと思います。
この記事を読んでくださった方には、初めてアドラー心理学に触れた、見聞きしたという人もいるかもしれません。
最後にそんな人達へ一言。
どんな印象を抱かれたかは人それぞれでしょうが、おそらく深い興味をそそられたと思います。
とにかく読んでみて欲しい。
タイトルや一部の文言から邪推をしてしまう方もいるかもしれませんが、僕はアドラー心理学、この本で紹介されている教えを、宗教とも心理学とも思っていません。あくまで人生に対する考え方の一つであり、一つの視点だと思っています。それもかなり現実的で実用的な。
いや、なんていうのかな、単純に読み物として面白いから!!!
頭使うけど!面白いから!!
オススメだよ!!!マジで!!!!!