理性と感情がぶつかった時どうすればいいのか
イギリス旅行の報告後半をさしおいて、ふと思ったことを、忘れないうちに。
しばらく触っていなかったけど、ask.fmというユーザー同士が匿名で質問ができるというサービスがある。
そこで今日、送られてきた質問にこんなのがあった。
「自分の気持ちに迷いがある時、理性と感情どっちで行動する?」
僕はこれに「感情」と即答した。自分の感情を抑えむことがなにか健康的に良くないような、そんな気がするからだ。
しかし、「自分が物事に対してどのように行動すべきか」と「自分が他人に対してどのように行動すべきか」は全く違う問題であると僕は思う。
俺はこの質問が物事に対してのもの(何をしたいか、何が欲しいかなど、もし失敗しても責任が自分が追うだけのもの)と解釈し、正直に感情に従うべきだと思った。
しかし一方で人に対しての行動、自分が行動することで他人に負担、迷惑、影響を与える行動に関しては、素直に感情だけで動くのは危険と感じる。
かといって理性ばかりで動いてもそれは相手の感情を無視する傾向になりかねない。多くの場合、理性に反発するのが感情だ。
感情でぶつかれば「感情的だ」と罵られ、理性を保って筋道を述べれば相手が感情的に反発してくる。一体どうしたらいいんだ。そう思うかもしれない。
人間、お互いが感情と理性を持っていて、それがぶつかり合うのだから、どちらか一辺倒ではいずれにせよ危険だと思う。
だから、お互いの感情と、「この場では本来こうあるのが筋であろう」という理性をぶちまけあうことが必要であろう。
最悪なのは、感情か理性どちらか片方だけ、しかも一方的に告げることだ。
親しかった人の心が離れるという現象の原因は、多くがここにあると感じる。
お互いに全てぶちまければ、それは全部が異なる場合もあるだろうし、理性が一致している場合もあるし、感情だけが一致している場合もあるかもしれない。
共通する部分があればそこで意気投合ができる。
もし異なった意見であったとしても、その人に聞いてみればいい。「どうしてそう思ったのか」と。先入観をとりはらって真摯に話を聞いてみればいい。理解できるかどうか判断するのはそれからでも遅くはない。
人は誰かに話を真摯に話を聞いてもらえている、その状況だけで心がほぐれてしまう単純な生き物だ。そして真摯に話している人を見ると、その熱意からか、理解できなくてもどこか認めたくなってしまうのが人だ。
いつの間にかぶつかっていたことを忘れているだろう。
闘争心も落ち着いて、謝罪の意思すら出てくるかもしれない。
しかし、人生において関わる人々全てにこのプロセスを取り組むのは、労力に見合わないだろう。
理解しあう必要のない、あるいは顔を合わせるべきでない相性の悪さというのは確かに存在すると思う。
だからあなたの大切な人にだけ、すればいい。
何も恋人だけじゃない、友人でも、親でも兄弟でも、教師でも生徒でも、あなたがそれなりに大切に思う人に対して。
歩み寄ってみれば、横たわってる溝はひとまたぎできる水たまりかもしれない。