もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

ゲームコンプレックス

ロリータコンプレックスとかマザーコンプレックスとかいった言葉が存在するように、ゲームコンプレックスという言葉があるとしよう。
 
あるとしたら、俺は、きっとそれにあてはまる。
 
 
こういう意味で使われるコンプレックスの意味は、単なる劣等感って意味じゃない。
 
精神分析用語で、『無意識のなかに抑圧され、凝固し、そのために意識された精神生活に影響を与え、ときに強い感動を誘発する観念の複合体』*1
らしい。
 
もう少しわかりやすい言葉に置き換えるなら、何かに対する異常な感情、執着。
 
俺はいわゆるテレビゲームに対して、異常な執着がある自覚がある。
 
 
 
 
なんだってこんなことを考えて、放置ぎみのブログを再開させてまで文章にしたのか。
 
まぁそれは、ブログを始めた彼女に対する対抗意識みたいな何かが大きいのはもちろんとして。
 
 
それでも原因の元をたどれば、それはやっぱり「ポケモンGO」のせいと言わざるをえない。
 
 
まさかここまで社会現象になるなんて、ほんとにびっくり。たった1つのゲームタイトルがこんなにメディアで連日飛び交うことが未だかつてあっただろうか。
 
でもその分やっぱり多くの人の意見があちこちで飛び交うよね。
 
 
そしてそこでやはり目についてしまうのは「ゲームに対して否定的な姿勢を崩せない人たち」の意見。
 
パッと見、それらの意見衝突の火元となっているのは、やくみつるさんがテレビで発言した一言、「こんなことに打ち興じてる人って、心の底から侮蔑します」なのかな。
 
俺にとっては、正直この意見に新鮮味は感じなくて、もちろん怒りが沸き起こらないわけではないけど、その怒りの矛先はもっと身近な人たち。
 
 
親族に対して、ゲーム嫌いなのにポケモンGOに関してはなぜか寛容だった彼女に対しても、「なぜゲームをそこまで目の敵にするのか」という怒り、悲しみ、一生理解しあえないという諦め、そういうマイナスな感情が渦巻いて止まらない。
 
 
少し冷静になって、俯瞰的になって、「なぜここまでゲームについて否定的なことに逆上するのか」という疑問が湧き、結論として自分がそこに異常な執着を持っているからだろうと思った。
 
ある意味、これは病かもしれない。
 
「ゲームが楽しい人」「ゲームが楽しくない人」それぞれが棲み分けをすればいいだけの話じゃないか。お互いがお互いに干渉しなければどうということもないじゃないか。
 
なのに、俺は。
 
俺というもはや自己中の塊でしかない人間は、「ゲームを否定的に見る人」が存在していることすら許せない。それが身近に存在することが看過できない。
 
それほどまでに、なにか異常な感情を自分の中に感じる。
 
 
これをゲームコンプレックスと言わずして、なんと言う。
 
 
 
 
かくいう俺も、現在それほどゲームに依存しているかというと実際そうでもない。
 
なにかのゲームに対して誰よりも極めたと胸を張れるものは1つもない。
 
ゲームコンプレックスだからといって、ゲーマーではない。
 
ゲームの他にもやりたいことはたくさんある。
 
プレイしているゲームは主にポケモンを中心とした任天堂の有名作をいくつか、あとはモンハンぐらいのもので、決して多いとは言えない。
 
スマホゲームに至っては当初否定的であったのが、つい数ヶ月前に友人の推薦でパズドラを始めたぐらいだ。
 
運動神経、反射神経のなさが影響しているのか、どのゲームにおいてもプレイヤーとして腕は下位だ。
 
毎日ゲームをしないと落ち着かないとか、そんなことも一切ない。
 
ここ最近はスマホゲームを除けばその他ゲーム機には自主的に触ってすらいない日が多い。
 
 
 
 
しかし、そんな下手の横好きでも、なぜか「ゲームについて否定的に言及する」ことそれ自体には過剰に反応してしまう。
 
小学生の頃の親に「ゲームを禁止された上に見せしめに捨てられた」抑圧の影響がこれほどまでに大きかったのか、と我ながら思う。
 
 
 
 
なぜ彼らはそこまでゲームだけを目の敵にするのだろうか。
 
 
 
「ゲームは現実と虚構の区別がつかなくなる」という。
 
そんな科学的根拠でもあるのだろうか。実際に自分がゲームを触ってみてそう思えるか試してみたのだろうか。テレビなどの煽りを真に受けているだけではないのか。
 
 
「ゲームは目が悪くなる、外出しないから健康上よくない」という。
 
パソコンでは、テレビでは、読書では目が悪くなることはないのだろうか。ゲームに夢中にならずとも外出を好まない人はたくさんいるではないか。むしろ「ポケモンGO」などは外出をうながしているではないか。
 
 
「ゲームは時間の無駄」という。
 
その他のことは時間の無駄でないとどうして言い切れるのだろう。あらゆる娯楽が、ある意味「時間の無駄」と捉えることが可能ではないのか。なぜその人が費やした時間の価値を他人が決めつけているのだろう。
 
 
「ゲームがなくても生きていける」という。
 
であるなら同じように、テレビがなくても、携帯電話がなくても、本がなくても、生きていくことは可能である。娯楽を一切持たずとも生きていく「だけ」なら可能であろう。
 
 
「ゲームは人を熱中させ、他のことをやらなくなる」という。
 
なぜそれがゲームだけで起こると断言するのだろう。テレビや本、スポーツに夢中になることと何が違うのだろう。なぜそれらが健全で、ゲームだけが好ましくないのだろう。
 
 
 
 
彼らの言い分全てが「ただゲームというものが気に食わず、認めたくない、触れてほしくない」がためにこしらえた言い分にしか思えない。挙句の果てには、「ゲーム好きな人」全員を哀れと決めつける始末だ。
 
 
もちろん彼らの言い分には多くの事実が含まれている。倫理的な正しさもある。
 
しかし、それをわざわざ楽しんでいる人の前で、しかも上から目線で語ることだろうか。
 
その言い分に人が夢中になっている娯楽を取り上げるのに十分な道理があるのか。
 
 
こちらの反論が屁理屈であるのと同様、自らの言い分も屁理屈ではないのかとは考えられないのだろうか。
 
 
 
 
こんな醜い言い合いを想像してしまうのは、愚かだとわかっている。
 
彼らが「ゲームを気にくわない、認めたくない」ように俺も「彼らを気にくわないし認めたくない」のだ。
 
だからそのためにもっともらしい言葉を並べ立て、敵意をむき出しにして、睨みつけている。
 
なんて子供じみた行為だろう。
 
もしかしたら被害妄想が暴走しているだけなのかもしれない。
 
実は、俺が「ゲーム嫌い」と認識している人たちも、そこまでゲームだけをないがしろにしたのではないのかもしれない。
 
 
 
脳内を塗りつぶす複雑な感情にもう整理が追いつかない。
 
どちらが感情的になっているのか、どちらが論理的であるのかすら判別できない。
 
自分が間違ったことを言っていない、と断言する自信もない。
 
自分の理想を押し付けているのはどっちなのか。
 
ただ単純に俺がわがままで駄々をこねているだけなのか。
 
考えれば考えるほど頭の中はぐちゃぐちゃで、感情は黒く濁っていく。
 
 
 
 
 
 
ただ1つわかるのは、俺は、身近な人、家族とゲームをする楽しさを共有したかった。
 
そしてそれが叶わなかったのが、悲しかった。
 
 
本当にただ、それだけだったのに。