もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

友達とかいう人生の宝

こんばんわ、お久しぶりです。もみじです。
 
今日は友達の話をします。
 
 
「友達の話をします」とか言っても、誰か特定の個人の話をしたいわけでなく、単純に「友達」っていう存在について思うところを話します。
 
 
このブログで語ることのほとんどが傾向が見られるのだけれど、俺には思い浮かべる過去があんまりない。
 
過去として比較されるのはつい一年前のことばかり。それ以前の過去の話はほとんどない。
 

 

 

 
以前の過去の話で出てくるのは内省とか家庭環境とかそういう話ばかりで、中学高校に「こんな楽しいことがあったんだよ」なんて話は一度も出てこない。
 
 
 
今思うと、「俺って数年前何してたんだろう」って感じなんだ。
 
 
様々なことに悩み苦しみ、言葉にし始めたのは全部去年。それ以前の自分がどんな自分だったのか、それ以前の自分がどんな思考をしていたのか、実感として思い出せない。
 
 
俺はぼっちだった。
 
それは去年の話。
 
 
 
それ以前はぼっちではなかった。友達はいた。
 
けどその友達とはどこか距離を感じる。遠く感じる。
 
よく覚えていない。
 
 
 
それほどに去年の一年が濃すぎて、それ以前の自分が全てリセットされたような、そんな感覚がある。実際、人間関係はほとんどリセットされた。
 
 
 
 
何が言いたいかって、俺の今が異常なほど充実しているということだ。
 
 
過去の自分(として思い出される一年前の自分)と明確に違う立ち位置にいる。
 
 
 
 
ぼっちの思い出なんて後生大事にとっておくものでもなんでもない。
 
現に俺は忘れている。意識しなければ、もう二度と思い出さない記憶として深いところに沈殿していくのだろう。
 
 
 
ただ俺は、まだ過去の原因にすがる癖が抜けていないようで、ときたまその沈殿しかけの記憶をすくって思い出そうとする。
 
 
「ある金持ちは自らの豊かさを忘れないようにスラム街を歩く」なんて話をなにかで読んだことがある。
 
それと似ている。
 
 
 
自分が恵まれていることを忘れちゃいけない気がするんだ。もし少しの運がなければ、俺はこの場所に立てていなかったかもしれない。
 
 
最近、周囲の人に生かされている、と感じる。
 
俺はずっと心の拠り所として彼女の存在を希求していたのだけれど、それが叶って余裕ができたのか、周りのことが少しずつ見えるようになってきた。
 
多くの人が自分を慕ってくれている。自分と関わってくれている。
 
 
 
これは幸せなことだ。
 
 
 
少なくとも俺の中で、人間関係が心の安定と直結しているのだ。
 
こうも上手くはいかない人達もたくさんいるのだろう。
 
 
 
これがどうか学生時代だけの儚い夢とは、なってほしくない。
 
一人一人が偶然の出会いだけれど、その繋がりを大切にしたい。
 
今の感じが、最高に楽しいんだ。
 
 
今、俺はものすごく「生(せい)」を感じている。
 
生きている感じがする。活きている感じがする。
 
 
 
 
 
俺はかつて、「生きづらさを抱える人達の集まり」なるものに参加していた。
 
 
初回参加したっきりで、それ以降は都合が上手く合わず参加できていない。おそらく今の僕が「参加します!」と言ったら彼らは温かく迎えてくれるだろう。
 
 
けど、思うんだ。
 
彼女もいて、友達もいて、サークルも楽しくて、やりたいことがたくさんあって。
 
そんな僕がいていい場所なのだろうか。もう僕の生きづらさなんてどこにもないんじゃないのか。
 
 
 
生きづらさに苦しんで逃げてきた人たちの避難場所であるはずの場所が、逆に馴染みにくく感じてしまう自分がいて、悩んでいる。