読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メープルたいむ

甘ったるくゆったり読める雑記を目指してます。どうぞ「メープル」な一時を。

自意識としての非リア・「ネットが生んだ文化」を読んで

読書感想文記事、第2弾!

 
前回はかなり時間かけたあげく、まとめが微妙だったんよね…
 
 
まぁ、これから徐々にクオリティー上げてくから!!
 
 
 
今回読んだのはこちら。
 
まぁネットで命をつないでるものとしてはね、なんか読んでおかないといけないなって思って。
 
こう見えて俺、パソコンを触り始めたのもSNSに浸り始めたのも実は高校卒業後というすごい情弱っぷりなんだ。
 
 
この本ね、いろいろ章ごとにテーマと著者が分かれていて、主に炎上、リア充と非リア、ネット上の言論空間、コピペについて語られてるんだ。
 
どれもすごい興味深い話だったけど、俺が一番興味持ったのは「リア充と非リア問題」。
 
これは以前からかなり語ってきた話題だから捨て置けないよね。
 

  

 

 

 
この章は、リア充と非リアの線引きって困難だよねって話から始まる。
 
だってそれは主観的なものだから。そしてそれは非リアを自称する大半が勝手に決めただけだから。自称非リアはいっぱいいるのに、リア充自称してるのってそんな見たことなくない?って。
 
確かにその通りだわ。結局リア充って幻影に近いんよね。
 
 
この本でどんどん明らかにされる非リアの実態ってのがね、もうまさに俺って感じでさ、耳が痛かった。
 
例えば、
 
弱みを拠り所にしている人間はおおむね「自分より恵まれた者の自虐は甘えであるからこれを許してはいけない」「しかし自分の苦しみは本物であるため、自分は自虐してよい」「だが、自分より恵まれない者がいたとしても自分のほんとうの苦しみによる自虐を非難してはいけない」という都合のいいルールの3点セットを持っている。
 
 
あーこれ俺だわ。マジでそうだわ、やばいわ。
 
ていうかそういうことを堂々と書いてたわ。幸と不幸みたいな感じで。

 

 

 
 
ネット上ではリア充と非リアに関わらず、持たざる者が持てる者を妬むみたいな構図がある。それを巧妙に例えてるのがこの本の面白いところだ。
 
この章の著者のセリフとして有名らしいんだけど
 
「ネット上に『爪を切った』と書くときは、『爪がある自慢かよ』と怒り出す人に気をつけなければならない」
 
 
そうなんだよね。ネット上で何か出来事を報告するだけで「自慢かよ」と怒り出す人はいる。「『爪を切った』程度で怒るわけないじゃない」とか思うけど、それが「恋人とディズニー行ってきた」だったらどうだろう。
 
少なくとも俺はあまりいい気分にはなれない。どうしてもネガティブな感情を抱いてしまう。
 
でもそれを発信した人はそんなの意図していないんだよね。発信する人に見てる人を傷つける意思なんてない。傷つけてるのって見た人自信の意識なんだよね。
 
それも本書で説明されてる。
 
持っている誰かの無自覚に傷つけられるということは、それは持っていないこと自体の不都合ではなく、「持っていない自分」という俯瞰的な認識に傷つけられているからである。
 
要するに、環境どうこう以前に自分のことを考えすぎなのだ。
 
私は自意識の強弱というものが、人の幸不幸に多大な影響を与えるものと考えている。
 

 

 
なるほどなぁって感じだ。
 
てかもう俺のことを直接disられてる気分だった
 
自意識過剰でごめんなさい!!!!
 
 
ここで終わると非リアdisってる本です!みたいな話になっちゃうけど、非リアにもメリットがちゃんとあるって書いてくれてる。非リアと文化の視点から。
 
 
まずあらゆる時代において、文化は暇の産物であると述べている。言われてみれば確かにそうだ。生きるのに必死な人たちはほとんど文化の担い手にはならなかった。
 
生活が充実していて、創作が捗るという状況が理想ではあるけれど、現実問題としてそういう事例は稀だ。
 
ここで述べられてる理由は2つ。1つは時間、もう1つはモチベーションだ。
 
特にモチベーションはそうだ。鬱屈は創作のモチベーションになりえる。欲求不満だったり焦燥感だったり。逆に売れてしまった芸術家があっという間に落ちぶれるってパターンが例に出されてる。これも鬱屈をエネルギーとしてたと考えればすごい納得がいく。
 
鬱屈自体は当然何の価値もないけれど、それが思わぬ飛躍をさせるファクターにはなりえるとのことだ。
 
 
この話を聞いて思ったのが、だから俺はリア充が気に食わないんだなって。
 
つまり、リア充はそもそも暇にもならないし、鬱屈も抱えない。よって文化を生み出す側にまわる可能性も少ない。つまり非リアから見ると非生産的な生活を送ってるように見えるんだ。
 
 
 
 
この章は、最初の方で少し触れた「リア充は存在しないんじゃないか」って結論で締められる。
 
いわば「非リア」というのは、集団から一度溢れた者を寄せ集めて再び結束させるセーフティーネットのような言葉である。
 
これは「ツルむことができない」という非リア本来が意味するところと照らし合わせれば、非リアという集団はむしろその意味を逸脱することを目的に形成されているようである。
 
「非リア」はコミュニケーションに対するアンチテーゼの形をとったコミュニケーションツールであり、「リア充」はそのために作られた仮想の存在である。
 

 

 
結局集団って敵の存在が必要らしい。外敵なくして結束ってのは人間には難しいとも書いてある。
 
 
これを読んで思い出したのは進撃の巨人
 
エレン(主人公)が始めて巨人の力に覚醒したときの駐屯兵団のドット・ピクシス司令との会話シーン。トロスト区奪還作戦の辺り。アニメの11話かな。コミックスだとわかんないや、アニメでしか見てないから。
 

f:id:momijitan:20150824212154j:plain

 

 

司令「巨人に地上を支配される前、人類は種族や理の違う者同士で果てのない殺し合いを続けていたと言われておる。その時に誰かが言ったそうな。『もし人類以外の強大な敵が現れたら、人類は一丸となり争いをやめるだろう』と。お主はどう思うかのぉ。」
 
エレン「そんな言い伝えがあるんですか。それは随分と呑気ですね。あくびが出ます。」

 

 
まぁ話のスケールは違えど、なんとなく人間の本質ってのに迫ってると思うんだ。
 
 
リア充はいるかどうかは大した問題じゃない。
 
必要とされてるんだ。
 
 
 
1つの章について掘り下げちゃったけどこの本の見せ場はここだけじゃないからね。
 
ネットを使っている人みんなに、といっても現代じゃほとんどがそうだけど、読んで価値ある内容だと思うよ。ネットを長く使って見ている人の言葉って俺にとっては結構貴重だった。
 
 
 
非リアの克服には自意識をどうにかしないとダメみたいだね。
 
 
…どうにかなるのかなぁ、この自意識
 
 
 
 
 
おしまい。