もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

友達の定義とは

最近、といってもかなり前からな気もするけど、やたら友達の定義が議論されるようになった気がする。
 
なんでだろう。昔、少なくとも自分が小学生の頃は考えたことすらなかったのに。
 
 
 

持論

俺の持論として、何回か会話をしたことのある人は友達と認識する。顔を合わせようと合わせまいと。だから俺はツイッター上とかで勝手に友達と認識している人が結構いる。
 
知り合いと友達の間にそこまで差はない気でいる。それはいつでも「知り合い→友達」って流れが起きてもいいように、むしろそれを期待して意識している部分もある。
 
少し厳しめに線引したとして、二人きりで話す状況があったなら、もうそれは間違いなく友達だと思う。
 
 

友達認定の厳しい人

俺は、正直言って友達の定義を厳しく設定する人の気持ちがあまりわからない。というか知り合いと友達をハッキリ分けようとする人の気持ちがあまりわからない。
 
たぶんそれは性格というか、人と関わりたい気持ちの強さが関係してそうだけど。
 
俺の勝手な印象で、たぶん偏見なんだけど、友達認定が厳しめの人って早い段階で「その人と関わりたいかどうか」を白黒つけようとする気がする。
 
「あなたはただの知り合いなんだから親しくしないで、私に近づいてこないで」
 
まるで周囲にそういうメッセージを放ってるように見える。
 
そういう人はきっと仲の良い数人さえいれば、あとはどうでもいいって思ってる。たまたま仕事とかグループとか一緒になっただけで、親しくなる意思はないって。
 
そういうあり方は別に悪くはない。悪くはない、けどたぶん良くもない。
 
どうしてそこまで頑なに心を閉ざすんだろう。それ、寂しくないのかな。
 
 

言いたいこと

そうだよ、たくさんの人と関係を持つのは疲れる。性格も全然違うし、振り回される。思わぬすれ違いが起こるし、投げ出したくなるほど面倒だ。いつ嫌われるかもわからない。
 
けど、やっぱり、だから少ない人と関わってればいいのか、というとなんとも言えない。
 
なんでかな。昔の俺なら、きっと違う意見だった。「友達少なくて何が悪い!数より質だろ!!」とか叫んでたと思う。
 
「一年生になったら友達100人できるかな」とかそんな歌詞があったけど、まぁ確かに100人の友達がいると胸を張れる人は少ないだろうね。少なくとも同じ質、つまり同じ親密度の友達を100人も持つなんて不可能だ。
 
あ、俺が言いたいことは、「友達を増やせ」とか「嫌なやつとかとでも関わろうとしろ」なんてことじゃないよ。
 
ただ、少ない友人関係に、コミュニティに満足して外にでることを拒む姿勢が、寂しく思えてしょうがないだけ。孤独を自ら選びとることにためらいを覚えない姿勢に、引っ掛かりを覚えるだけ。
 
強制的にそういう姿勢を変えようってほど傲慢になれないから、やんわりと「それでいいの?」って問いかけてるだけ。
 
 
きっと、そういう人たちだって好きでそうなったとは限らないよね。だから、責めたいわけでもない。
 
それに、俺だってそんなあり方を否定できるほど、偉い身分になったつもりもない。
 
俺はとっても寂しがりだから、誰かどこかで関わって自分の存在を肯定したいと強く願っている。よく言えば人間関係に積極的だけど、依存的とも言えるし、俺のあり方もそれはそれで褒められたものじゃないんだろう。
 
何より俺の人間関係はネットというメディアに頼りきりなところがあるし、それもきっと「井の中の蛙大海を知らず」なんだろう。
 
 
 
なにかと最近は自虐ブームだから、「いや、俺友達少ないんだよ」ってのを自慢気に言う人も多いけど、それもそれでどこかひっかかる。
 
事実だとしても、なんか自分から傷口を見せてまわってるようで、気味が悪い部分ある。
 
あ、でも、しょっちゅう自虐的ツイートを繰り返してる俺が言えたことじゃないか。
 
 
 
 
 
おしまい。