もみじろぐ

とある男の、心のほんの一部

一般論に反吐が出る

今回は、ちょっと過激な意見を言うよ。
 
 

 先日、他大学と共同のサークルで、「社会人のお話を聞いてディスカッションしてみようぜ」という意識高い集団に所属しました。

 
まぁその活動は始まったばかりだし、未だに肝心の社会人のお話を聞くというイベントすら経験してないので、感想を言おうにも言いようがない状態にあります。
 
(追記:結局このサークルはやめてしまいました)
 
ただ、そんな状態でもディスカッションをしていて、ふと気付いたことが今日のタイトル。
 
そう、俺は「一般論が反吐が出るほど嫌い」みたいなんだ。
 
 
 
 
 
いろいろ誤解を招く恐れがあるので、言い換えよう。
 
俺は「誰でも思いつくようなありきたりなコメントに聞き飽きていて、それをせっせと生み出している人をどこか冷めた目で見てしまう」んだ。
 
 
そんな斜めに構えた自分がいることに気付いて、ちょっと寒気がした。
 
 
 
俺は昔から何度も同じことを聞かされるされるのが嫌いだ。これは親父とか爺ちゃんの小言を何度も聞かされてきた影響。
 
だから、「あ、その意見どこかで聞いたな」って意見には冷たく反応してしまうところがある。
 
例えば、「夢を持って前向きに頑張る」とか「目標を立てて地道に努力する」とか、そういう感想文で書いたら先生に褒められそうな意見。
 
あまりに多くの人が言うもんだから、感動どころか、退屈しか感じない。
 
 
 
別に一般論の存在を否定したいわけじゃない。
 
多くの人が自分の意見を「まるで万人にあてはまることのように」一般化したがる。それに、多くの人が言う言葉というのは信憑性が高く、というか事実のことがほとんどだ。
 
 
でもさぁ、なんかそれを振りかざすだけの人間って、つまんないんだよ。
 
誰もが言える言葉に、価値はあるの?
いや、価値とかそういう問題じゃないのかもしれないけど。
 
少なくとも俺は、つまらない人間になりたくない。
 
 
 
俺は、自分で考えて悩んで複雑な矛盾を抱えて、そんな中「なにかを伝えよう」と必死に絞り出した言葉こそ、重みを持つと思ってる。
 
ただ、「そうやって絞り出された言葉がもし、他人と同じだったら軽くなるの?」っていう疑問が浮かんだ人に、答えをあげなきゃいけないね。
 
 
俺の答えは、
「他人と同じ言葉だろうと、本人が本当に自分の経験から絞り出した言葉なら重みを持つんじゃない?」
 
 
この答えは、さっきの「一般論がつまらない」って意見と若干噛み合わない。
つまり、実際に本人が経験から絞り出したものが一般論だったとして、その場合も「つまらない」という評価を下すのか、っていうツッコミどころが浮上するんだ。
 
それについても言い訳させて。
 
この記事を書いてる中で気付いた。
 
俺が聞いて「つまらない」って感じるものは正確には一般論じゃなかった。一般論を「つまらなく」語ってしまう人だったんだ。
 
 
みんなも人生で何回か、ものすごく感動した講演の経験があると思う。
 
そういう人たちの言う言葉って、何か他の人とは違う輝きを持ってる気がする。それがわりと一般論的な、今までに何度も聞いたような言葉だとしても、何か違う輝きを持ってると思う。
 
そう、つまり「つまらない」かどうかは、その人の「伝える力」に密接してるんじゃないかと思うんだ。
 
 
 
 
みんなはどう思う?
 
俺はとりあえずここで「伝える力」を磨いてるつもりなんだけど、まだどこに向かって歩いてるのか見えないや。
 
 
 
 
おしまい。